REBEL∝VECTOR

小説/イラスト/詩/俳句 ©NaG∀T∴

キ×キ

 朦朧もうろうとした闇……ぐわんぐわん響く、ゆがんだノイズ……――

 眉根に溝を刻み、唇をグネッと曲げてうっすらまぶたを開くと、顔の右半分が埋もれた枕のすぐ横を薄闇に染まった壁が塞ぐ……

 ……ここは……そう、マヤカの、カノジョの部屋……エアコンの生暖かい息が満ちる、コミックだの雑誌だのが散らばる雑然としたワンルーム……背もたれを倒したソファベッドの上、下着姿でタオルケットにくるまる僕……そして、マヤカ……

 

 ……ん……?……

 

 風邪にでもかかったのか、頭がズゥンと重く、だるい全身……その背中側から土砂降る、獣のわめきに似た耳障りな響き……いら立って寝返り、しかめ面で寝ぼけまなこを瞬いて見上げる先……カーテンににじむ外灯の光が浮かび上がらせる、膝立ちしたマヤカの影……いつになくキツさを増した目が、鈍くぎらついているように見えた。

 

 ……るっさいな……

 

 不快な夢うつつのまま、僕は何をキレているのかとのろのろ記憶をさかのぼった……昨日――多分日付が変わっていると思うので間違いないと思うが、ともかく昨日は午前中から授業を受け、宇野田と一緒に大学を出て、彼が付き合ってるミユちゃん、それからマヤカと待ち合わせてファミレスで夕飯を食べ、カラオケでJ‐POPだのアニソンだの銘々好き勝手に歌い、駅でカップルごとに別れた後はここでマンガを読み散らかしたりネット動画を適当に見たりして、それから取りあえずヤって、寝て……まさか、最近セックスがマンネリだからってことは無いだろうし……ぐずぐず考えているうちにわめき声はどんどんグチャグチャになり、頭の中でギンギンギンギン反響する。耐えかねた僕はむっくと起き上がり、息がかかる距離から怒りをぶつけた。

 

 ――何だよ? 何騒いでんだよ?――

 

 体調不良もあってささくれ立ち、乱暴に吠える……と、マヤカは気持ち悪いものでも見るような嫌悪のまなざしを返し、いっそうトーンを上げてギャンギャンわめき、腕を振り回してソファベッドをバンッと叩いた。

 

 ――ちょ、や、やめろよっ!――

 

 気おされ、壁に背中をドッとぶつける。目の前で沸騰する感情……しかしながら理由は皆目かいもく見当が付かないし、ヒステリックなわめきはまるで宇宙人を相手にしている感じで全然聞き取れない。

 

 ――お、おい、落ち着けって――

 

 なだめようとするもさらに火勢は増し……壁に背中をこすりつつ、僕はじりじり彼女から離れた。鼓膜を震わすわめきが大脳でスパークするほど体調が――頭がカアッと熱くなり、全身泥に変わったみたいに重だるくなる……それ以前に、こんなヤツのそばにいたらどんなことになるか……相手を警戒しながら僕は脱ぎ捨てたシャツとジーンズ、裏返しの靴下を半ば手探りで見つけ、それらを手にソファベッドから下りて絨毯じゅうたんの上に散乱したコミックを踏み、蹴散らしつつ距離を取った。

 

 ……どうしたんだよ? まさかお前、ヤバいクスリでもキメて……?――

 

 よろめきながらジーンズをはき、シャツの袖を通して、手に持った靴下をジーンズのポケットにねじ込むとゆっくり後退……狭く、散らかったリビングの壁際まで移動……ふと、壁に背中を付いた拍子に横を見ると、すぐそばに照明のスイッチがあった。ふと、これを入れれば異常が消え去るんじゃないかと伸ばしかけた手がビタッと止まる。明かりが何か恐ろしいものをさらしてしまうような、そんな気がして……ソファベッド上で両目を暗くぎらつかせるマヤカ、薄闇が充満する密室……カウントダウンを急ぐごとく鼓動を速める、僕の心臓――

 

 ……な、なぁ、僕が何か悪いことしたんなら――

 

 素足へ飛びかかる枕――びっくりして飛び上がると、マヤカはさらに枕元にあった自分のスマホをつかみ、ぶん投げる素振りで威嚇――

 

 ――おまっ、ふざけんな!――

 

 とにかく逃げよう――僕は刺激しないようにそろりそろりと横歩き、後ろ歩き……ハンガーラックにかけておいたダウンジャケットを引っつかむや一気に玄関へダッシュ――シューズをつっかけ、体当たりの勢いでドアを開けてクソ寒い深夜へ飛び出した――





 アパートを逃げ出した僕は息が切れたところで足を止め、ポケットにねじ込んだ靴下を出して片足ずつはき、街灯の明かりを頼りに駅を目指して黒い住宅街の迷路を歩いた。寒風が吹き荒んで髪を乱し、頬が冷気でヒリヒリする。まるで氷水のプールに浸かっている気分だ。

 

 ――にしても一体どうしたんだ、あいつ……

 

 寒さに引き締められた頭で再度振り返ってみたが、やはり思い当たらない。おかしくなったマヤカが悪いのであって、自分は被害者じゃないのか……非が無いのに真夜中に叩き起されてわめき散らされ、物を投げられて部屋を飛び出すはめになり、真冬の深夜歯をガチガチ鳴らしながら震えている……

 

 ――くそっ……

 

 冷えていた頭が熱くしびれ、ぼおっとする……額に手の平を当てようとしたとき、突然ジーンズの後ろ――左ポケットに入れてあったスマホがバイブした。

 

 ――マヤカ――

 

 コール音で分かり、もしかして正気に戻ったのかとスマホを手にしたが、呼び出しと言うより警報のような気がして通話アイコンを押せなかった。

 

 ――今は関わらない方がいい。ヤバいクスリのせいか知らないけど、そんなすぐ正気になるとも思えないし……まさか、追って来ないよな?――

 

 ぞっとして後ろをうかがうとコール音は止み、戻った待ち受け画面では〈1:49〉と時刻が表示される。

 

 ……終電なんてとっくに終わってるし、9駅先までタクシーに乗る金なんて無い……しょうがない。駅前にある24時間営業の店で一晩過ごすか。明日……っていうか、今日も1時限目から出なきゃいけないし、夜はバイトがあるんだけどな……

 

 風邪を引いてしまったようだし、始発の時間まで暖かいところで仮眠を取らせてもらおう……ジーンズの後ろ、右ポケット内の財布を触って歩いているうちに横断歩道の赤信号の向こうに駅の常夜灯の明かりが見えた。快速電車に素通りされる駅は、入り口にシャッターが下ろされて人気が無い。僕は冷やかな風貌の駅を横目にし、客のいないコンビニの店内を外から眺めつつ通り過ぎて終夜営業しているハンバーガーチェーン店・マストバーガーの前に立ち、自動ドアがガーと微かなうなりを上げて開いたところに足を踏み入れた――と、自動ドア正面奥、カウンターにひとり立っていた、自分と同年代くらいの男性店員が僕を見るなりぎょっとした顔をして硬直する。

 

 ……な、んだ……?

 

 暗がりで慌てて着替えたから、ひょっとして格好が変?――確かめようと自動ドアを振り返った僕は、一瞬心臓が止まった。

 女――

 正確には自分より二つ三つ年下……高校生くらいのスレンダーな少女が、夜の闇を背景に映っていた。冬真っただ中だというのに薄手の半袖黒ワンピース姿……袖から出た、白蛇を思わせる腕……そしてガーリーロング――肩の辺りから胸まで黒髪をうねらせたヘアスタイル……そして僕を凍り付かせた、切りそろえられた前髪の下でらんらんとする瞳――驚きのあまりよろめき、転びそうになって――僕は一瞬それた視線を自動ドアに戻したが、そこにあったのはうろたえる自分の姿のみ。

 

 ――な、何だ、今の?――

 

 自動ドアが反応しないぎりぎりから恐る恐る凝視したものの、やはり不気味な少女は影も形も無い。

 

 ……見間違い……だよな……

 

 念には念を入れてドアガラスの隅々まで確かめた僕はようやく落ち着き、映る自分をよく観察した。髪に妙な寝癖がついているとか服の前後ろ逆とか、間違ってマヤカの服を着ているといったことも無い。こめかみに右手を当てて冷静に考えた僕は、少女の幻覚は熱で頭がぼやっとしているせい、店員の反応は来客にびっくりしただけだろうと結論付けた。自分もコンビニの夜勤バイトをやっているから、退屈や眠気でぼーっとしてしまうのはよく分かる。

 

 ……まったく……体調は悪いし、マヤカはおかしくなって、そのうえ幻覚まで見るなんてな……

 

 ポンポンポンと額を軽く叩いて嘆息すると、厨房の奥から漂ってくるにおいが空いた小腹を刺激……取りあえず何か注文しようと僕はカウンターへ歩を進めた。

 

 ……えっと、アボガドチーズバーガーと、カフェラテのホット、Mサイズを下さい――

 

 カウンター上のメニューから目を上げると、センター分けの黒いキノコ頭をした、冴えない陰キャ風の男性店員は、太い黒ぶちメガネのレンズ奥で僕が映った目玉を大きくさせ、青ざめていた。ニキビぶつぶつ肌がピクピクし、色の悪い唇から気色悪いうめきが漏れる。

 

 ――ちょっと――

 

 また当惑した僕だったが、しかし格好は今し方確認した通りノープロブレム。言動だってもちろん――少なくともこんな顔をされるようなところは無い。ひょっとしてこの黒キノコ頭、退屈しているところにやって来た僕をからかっているのか?……そうか、そうに違いない――不安に代わって怒りがこみ上げてきた僕は、ふざけるんじゃないぞという感情を込め、大声ではきはき、単語ごとに区切って注文を繰り返してやった。その声にビンタを食らったような表情の黒キノコ頭店員は慌てて厨房の方にもつれて聞き取れない声を発し、僕がカウンターに投げた千円札をおっかなびっくりつかんで精算すると、緊張した顔でお釣りを渡し、次いで商品と引き換えの番号札をビクビク差し出した。その態度にまた不安が高じたが、ともかく番号札を引っつかむと僕は人気が無い店内の奥にあるソファ席に腰を下ろして足を組んだ。気分が悪いせいか、ありふれた店内もうっすら流れる軽やかなBGMも神経にジクジクしみる感じがする。

 

 ――くそっ、ふざけやがって――

 

 熱っぽい頭を左右に振って気持ちを少し静めると何だか心細くなり、マヤカ以外の誰かとつながりたくなってスマホを取り出したものの、時刻を考えてまたジーンズの後ろポケットにねじ込む……そのとき黒キノコ頭がトレイを持ってぎこちなく近付いて来るのが目に入ったので、僕は腕組みをして迎えた。にらみつける僕をちらちらうかがいながら黒キノコ頭がテーブルに置いた、とぐろを巻いてカップに収まっている薄赤い色のそれ――目をむいた僕は束の間絶句し、切れた堰から怒りを噴出させた。

 

 ――おいッ! このクソ寒いのに誰がストロベリーを、ソフトクリームアイスを頼んだんだよッ! アボガドチーズバーガーとカフェラテのMだろ、注文したのはッ!――

 

 激情のまま払いのけられたアイスのカップ――ストロベリーソフトが三回転半して床にベチャッと落ちる。おびえる相手に牙をむいて立ち上がったとき、騒ぎを聞きつけた店員――二十代半ばくらいの、細目でぽっちゃりパーマの小太り男が接近――そいつは細い目をさらにギリギリ細め、何かごちゃごちゃと話し始める。僕はさえぎってふざけた接客へのクレームをつけたが、相手は何を言われているか分からないような顔をするばかり。

 

 ――いい加減にしろよ、このッ!――

 

 ガッとぽっちゃりパーマの胸倉をつかむと、黒キノコが横から引きつり顔で止めようとする。ひどくゆがんだぽっちゃりパーマのしかめ面をにらんだ僕は興奮したせいかめまいを覚えて手を放し、ふらふらよろめいた。体のだるさはますますひどくなり、熱くしびれた頭で痛みがぐわんぐわん響く――

 

 ――どっ、どうしたんだ、いったい……!――

 

 カオスに耐えかね、店員たちに体当たりしてどかし、鈍い動きで左右に開く自動ドアに腕をぶつけながら飛び出す店外――頭上では、寒風が電線を不気味にかき鳴らしている……冷気に身震いし、翻弄される木の葉みたいにふらつく僕は得体の知れないものから逃れるように、線路を頼りに自宅アパートの方角へ懸命に足を速めた。




 数時間後……寒さと疲労で倒れる寸前、ようやく自宅アパート――二階のワンルームにたどり着いた頃には、東の空が白み始めていた。震えが止まらない体に熱いシャワー浴びせてベッドに潜ったものの、不可解な出来事の連続で高ぶった心は容易に静まりそうになかった。

 

 ……とにかく眠ろう……何もかも、きっと体調が悪いせいに決まってる……

 

 ぶつぶつつぶやいているうち、疲れ切った肉体はずるずる眠りに落ち……そして、無遠慮なメロディが脳天に炸裂。スマホを操作してアラームを止め、待ち受け画面で午前8時と確認した僕は気だるい体を起こして額に手を当てた。病的な熱っぽさは依然あったが、ひと眠りしたことで頭のしびれや痛みは少し軽くなったようだった。

 

 ……今日は一時限目から授業受けないと……病院は午後行こう……多分風邪だと思うけど、ちゃんと診てもらった方がいいだろうし……

 

 渋々ベッドから這い出し、いつものように洗面所で顔を洗い、寝癖を直して髭を剃る。

 

 ……別にどこも変じゃないよな……

 

 化粧鏡に映る顔にキス寸前まで近付き……そして着替え終わると今度は姿見の前に立って全身――後ろもくまなくチェックし、見た目に異常が無いことを念入りに確認。巷にありふれた平凡なヘアスタイル……細くも丸くも角張ってもいない標準的な顔、取り立てて特徴の無い目鼻立ち……身長170センチメートル、体重61キロの中肉中背……チャコールカラーのVネックセーターにジーンズ、ダークブラウンのダウンジャケット、黒のショルダーバック、グレーのソックス……特段おかしなところは無い。

 次に僕はスマホのアプリを起動させ、インターネット・テレビを視聴した。年末のクリスマス商戦を特集していた情報番組では、ショップにやって来た女性リポーターが《恋人へのプレゼントで一番多い価格帯は、一万円以上二万円未満》とか、《すでにヒーロー変身ベルトは圧倒的人気で生産が追い付かない》などとリポートしている。僕はそれらの情報が脳に正しくインプットされているかチェックし、さらに復唱という形でアウトプットしてみた。

 

 ――大丈夫だ。言っていることは分かるし、自分の発音とかだってフツー……見た目も何もおかしいところなんて無いだろ……

 

 マヤカや店員たちの態度がアレだったのは、体調不良のせいかもしれない……熱とかのせいで自分でも気付かないうちに言動がヤバかったのかも……あんな幻覚を見るくらいだし……だけど、今は正常。頭は一応はっきりしている……要するに少したち・・が悪い風邪にかかったんであって深刻な病気とかじゃない。診察を受け、薬を飲んで眠ればちゃんと治る……僕は栄養を摂るべくレトルトカレーとパックご飯をレンチンしてカレーライスを作り、野菜ジュースを飲みつつ食べたが、患っているせいか粘土を噛み、絵具を溶かした水を飲んでいるみたいだったのでほとんど残してしまった。そのうち出かける時間になったので、テキストが入ったショルダーバッグを肩にかけてアパートを出る。

 

 ……あとでマヤカにラインで謝ろう。熱のせいで怒らせるようなことをしちゃったんだろうし……どう謝ったらいいのかな……

 

 そうだ、宇野田に相談してみよう――友人と顔を合わせる大学へ、駅へと、ダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、白い息を吐きながら急ぐ。行く手には枯れ枝を刺々しくさせた街路樹の列が続き、その遥か頭上を薄墨色の雲が重苦しく覆っている。駅に近付くにつれ、駅前駐輪所へ走る自転車や鞄片手に急ぐサラリーマンが現れ始めた。

 

 ……ん?……

 

 横から追い越す自転車――視線を感じて顔を向けた途端、こっちを振り返りながら走って行くぼさぼさ頭の男子高校生と目がバチッとぶつかって、相手のしかめ面に僕は思わずドキッとした。

 

 ――な、何だ、あいつ――

 

 驚き、ムカつきつつ、顔に何か付いているのかと手の平でこすってみるも異常は無さそうだった。もしかしてと髪を触ってみたり胸や腹、肩、腕に目をやったりしてみたが、やはり……

 

 ……どういうことだ?……まさか、ぶり返して……

 

 頭のしびれがまたひどくなり、熱が上がって意識がぼんやりし始める。膨れていく不安に引き返そうかとも思いつつ足早に歩き続ける後ろから自転車に乗って談笑する声が接近して来たが、それは急に静かになり、呼吸を止めたように沈黙する女子中学生二人組が、追い越しざまキモそうに一瞥して走り去る。それだけじゃない。横道から出て来てギョッと立ち止まり、僕をまじまじと見つめてから慌てて歩き去る中年サラリーマン――黄色い帽子をかぶってランドセルを背負い、進行方向からじろじろ僕を見上げて、大きく開かれた目一杯に好奇とおびえをたたえてすれ違う小学生の一団――走るバスの車内から鋭い視線をそろって向ける乗客――ハンドルを握りながら忌まわしげに眺めていくドライバーたち…………………………………………それら奇妙なまなざしが自分をどんどんどんどんどんどんどんどん削り取っていく気がして、戦慄した僕はうつむいて灰色の歩道を見ながら駅へスピードを上げた。

 

 ……もしかして、これは悪い夢? いや、そんなはずは……僕はちゃんと目覚めている……そのはずだけど……

 

 奇々怪々な荒野に変貌した世界……言いようの無い恐怖に襲われる僕は、引き返すこともできないまま駅の改札口へ駆け込んだ――

 

 

 

 心臓が……萎縮した心臓が震え続けている……大学へ続く歩道――背中を丸め、鉛が詰まったような頭を垂れて歩く脳裏に先ほどの電車内……そしてその前、駅でのことがゾッとよみがえる。ホームに至るエスカレーターで生じた他者との距離は、黄色い線の内側で待つ僕のそばに誰も寄らない隔たりになり、乗車後は通勤通学で込み合う時間帯にもかかわらず半径数メートルの空虚を形成した。透明な檻越しにちらちら投げられる、あるいはそらされた色とりどりの目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目、目……………………

 開かないドア側に追い詰められ、両腕をボクシングのガードさながらに上げて身を縮めた僕は無機的な風景を流す車窓にうっすら映る自分と向き合い、顔や首、胸から腕……とつぶさに確認したが、やはり理由らしきものは何も、どこにも、それらしい糸口さえも見つけられなかった……

 

 ……こんな不条理、悪夢としか思えない……だけど夢だとしても、どうしてこんな仲間外れに……? 深層心理に関係あるんだとしたら、ハブられる恐怖とかそうなりそうなコンプレックスを抱えてるってことなのか? それともワキガとか口臭がひどいとか……いや、そんな……それとも変な霊が背後に見えるとか?……

 

 マストバーガーで見た幻覚――少女が頭をよぎる。雪の肌で紅く微笑する唇。心の奥底まで刺し貫きそうなまなざし――

 

 ……だけど、あれはただの見間違いだろ? 霊なんてありえないし……でも……悪夢の中だったら……

 

 こわごわ背後をうかがったが、少なくとも自分には見えなかった。原因を探し求めて頭をひねりにひねって思考のギアをきしらせているうちに体はオートマティックに動いて大学の正門をくぐらせ、僕を校内へ運んだ。くすんだ冬の光が差し込む廊下や教室前には学生がいて、一時限目が始まるまでおしゃべりなどで暇を潰していたが、その声はわんわん響くうえに言っていることが分かるような分からないような有様だった。朝、テレビを見たときは、しっかり聞こえて理解もできていたはずなのに……しかも、それらの声も僕を認めると一気に低くなるか途切れるか……クスクスあざ笑う者も少なくなかった。

 

 ……ふざけんな……夢だからって、どうしてこんな……!――

 

 僕は目をそらしながら間を抜け、教室のドアを開けると、宇野田がもう来ているかどうか探した。

 

……宇野田!――

 

 見つけ、助けを求めて親友に近付く――席に着いて山口や岡崎と談笑していた彼は僕という存在が起こした波紋に目を向け、接近に気付くと電気ショックを受けた反応をして立ち上がった。それで足が止まりかけ――しかし、後戻りせずそのままゆっくり距離を詰める……親友なら他とは違うと期待して……宇野田は目尻がやや下がり気味の顔を引きつらせ、途切れ途切れに言葉を口にしたが、僕にはよく聞き取れなかった。

 

……え?……分かるようにちゃんと話せよ!――

 

 戸惑う宇野田……そのそばで驚きとも嫌悪ともつかない顔を添える山口たち……鼓動がうろたえ、熱としびれが頭を激しく蝕む。あえいだ僕はなぜそんな態度を取られるのか繰り返し問いかけたが、あがけばあがくほど宇野田たちと隔たっていくようだった。そのとき――教室前方のドアから玄田げんだ教授の細い長身が入って来たことであがきは中断……入室した教授は満タンの異様な雰囲気に眉を上げ、中心にいる僕と宇野田たち、それを遠巻きにしている生徒たちに頬骨が張った細面を渋くした。そして警戒する素振りで僕との間合いを詰めると、薄い唇を動かしていつもの低い声を出した。もともと聞き取りづらい声なのに加えて何を言っているのか分からないので聞き返すが、その度に教授の表情は険しくなり、細面は赤味を増す一方……どうしたらいいのかと宇野田を見るも彼は教授を気にしながら汗ばんだ顔で僕に身振り手振り交じりに何かを訴える。

 

 ――さっぱり……さっぱり分からない……どういうことなんだよ?――

 

 毛穴という毛穴からじゅくじゅく脂汗があふれ、肌を伝って落ち、下着をじわじわ濡らしていく……熱としびれが頭の中で渦巻き、体がふらふらっと崩れそうになる……沸騰した顔でドアを指差し、金切り声を上げる教授――クラスメイトたちの目玉は奇怪なものを前にしたような緊張で膨れ、周りでぐるぐる回転し続ける。ただ、ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐるぐるぐる………………

 

 ――や、やめろ! そ、そんな目で見るな!――

 

 耐え切れなくなった僕はふらつき、足をもつれさせながら一目散にドアへ突進――教室の外に飛び出た途端中から噴き出した騒ぎ声にさらわれ、校外へ、どこかへとおぼれながら押し流されていった――




 出くわす人々の視線や態度に突き刺されながらひたすら歩いて……途中何度か転んで痛む体を自宅アパートの玄関に倒れ込ませたのは、曇天がすっかり夜の黒に染まり切った頃だった。ずるずる這いずってベッドに潜った僕は、空腹や喉の渇きに構わず布団をひっかぶり、真っ暗闇で体を丸めた。帰宅中も後も繰り返し着信があり、深夜バイトの勤務開始時間を過ぎた辺りでそれはしばらくひっきりなしになったが、僕は歯を奥歯からすべてガッチリ食いしばらせ、両耳の穴に指を突っ込んで、固まった団子虫状態で悪夢と自分とを断絶させようとした。

 やがて、掛け布団越しにチュンチュン、チュチュチュンとスズメのさえずりが聞こえ、アパートの住人がドアに鍵をかけ、ガサガサとゴミ袋片手に出掛ける物音や近くを通る小学生たちの小うるさい騒ぎ声が聞こえてきたが、それらが僕を侵していくように感じられて鼓膜に届くくらい深く指を突っ込み、まぶたを何重にも下ろしてロックした。

そして……どれだけ時間が過ぎただろうか……闇深く沈んだ意識にピンポンピンポーンと執拗なチャイム音、ドアをドンドン叩く音、呼び声らしきものがセットで聞こえてきた。

 

……マヤカ……? 宇野田……? ミユちゃん……?……

 

 何て言っているのか定かではなかったが、聞こえてくる3人の声は僕を心配しているものだと感じられた。そう信じたかった。独り追い込まれた僕に差し伸べられる、その思い――いつの間にか涙がだくだくあふれ、どうしようもなくなった。

 

 ……どうしたらいいんだ……どうしたら……!――

 

 耳から指を抜いた僕は、チャイムとノックが途切れ、遠のいていく3種の足音に気付いた。

 

 ――ま、待ってくれ! 待ってくれよッ!――

 

 慌てて玄関から共用廊下に転がり出た僕は、振り返ったマヤカたちにぐしゃぐしゃ顔で叫んでいた。




 気が付くと、僕は昨日出かけるときそのままの格好を宇野田とマヤカに挟まれ、タクシーの後部座席に座っていた……助手席に座っているミユちゃんの横でハンドルを握る運転手の視線が、時折バックミラーから、ギラッ、ギラッと反射する……ぼろぼろ泣きながら引っ張られるままになっていたので、なぜタクシーに乗っているのか、どこに向かっているのか、まったく分からなかった。

 僕は左隣……膝の上でこぶしを固めている宇野田をちらっと見た。それに気付いた彼は目をぱちぱちさせてぎこちない笑みを浮かべ、ブラウンの髪を撫で付けてから慰めるような調子で何事か話しかけた。よく聞き取れなかったけど、何となく気持ちが楽になった僕は鼻腔で粘っていた鼻水をズズッとすすって頬を緩めた。そして今度は右隣……腹の前で両手を祈るように組み合わせるマヤカに転じた。一昨日はあれほど逆上していたのに今はすっかり落ち着いて……と言うよりも平静を装っている風。彼女が僕の視線を受けて身じろぎし、軽くワンカールかかったボブヘアを指でいじって体を固くしながらも笑顔を繕うと、振り返ったミユちゃんがショートヘアの似合う丸顔で元気づける表情をプラスしてくれた。

 

 ……ホントにありがとう、皆……自分の何が問題なのか、そもそもこれが夢か現実かもはっきりしないけど、こんな親身になってくれるのは嬉しいよ……

 

 仲間たちを見つめ、心の中でひたすら繰り返す感謝……口に出して伝えたかったが、感動のあまり詰まってしまっていた。そのとき少し乱暴にブレーキが掛かり、ガクンと前のめりになった僕が顔を上げてリアサイドウインドウの外に目をやると、薄汚れた巨大な建物が視界の大部分を占めた。宇野田に手を引かれて降車し、緊張しながら見上げると、規則的に窓が並んだ建物の上層階に《永徳大学附属病院》と大きくあった。

 

 ……病院……そうだよな。やっぱりどこかおかしいんだよな、僕は……

 

 どうしようもなく気が重くなり、重力が倍増した感覚に襲われて動きが鈍くなった僕はそのまま3人に連れられ、エントランスの自動ドアを通ってロビーにのろのろ足を踏み入れた。すると、横列を成すロビーチェアに座って会計待ちをしている患者やその付き添いらしい老若男女が、やはりじろじろこっちを見てきた。それらの視線にいたたまれなくなって横へそらした僕の目に、見覚えのある影がかすめる。

 

 ――はっ――

 

 ガーリーロングの少女――先を行くミユちゃんの肩越しに見える、ロビーチェアに座る人たちに交じって僕へ斜め四十五度ほど顔を向ける影……白地の黒点、暗中の炎並みの存在感に僕はグラグラっとして――だが、その姿は腕を引く宇野田とマヤカに気を取られた一瞬に消えてしまい……慌て、捜し出したい衝動に駆られながら動けなかった僕は、ロビーチェア――後ろから二番目、人がいない列の端っこにマヤカと隣り合って座らされた。

 

 ……幻の一つや二つ、別に驚くことじゃない。これは夢なんだし……

 

 納得させていると、宇野田がいつの間にか僕の財布を持って脇に立ち、ポイントカードなどに紛れていた保険証を取り出す。そして財布を返すとひとり受付に行って団子っ鼻のアラフォー女子相手に話を始め、何度か振り返って僕を指差した。やがて戻って来た宇野田は、保険証を返しながら口を開いた。マヤカとミユちゃんは深刻な顔でじっと話を聴き、ときどき頷いていたが、自分には知らない言語でのやり取りにしか聞こえず、それでますます陰欝な気分になった――と、僕は両脇から腕を半ば引っ張り上げられ、立たされて病院の奥へと歩かされて……




 背後に立つマヤカたち……脱いだダウンジャケットを抱き締めて背中を丸め、小さくなってイスに腰かけた僕の前で横を向き、デスクの上に広げたカルテを見る医師……白髪交じりの短髪から額、ワシ鼻、唇と尖ったあごのジグザグした輪郭を目でなぞり、僕は診察室出入口に掲げられた《精神科》と《担当医 新木 一郎》というプレートをぼんやり思い出し、白衣の胸の名札と合わせて眼前の医師に結び付けたが、なぜかそれは食い違っているような気がした。

 

 ――はい?――

 

 正面からの問いかけに気付き、こちらを斜に見る新木しんき医師に焦点を合わせたが、やっぱり言われていることが分からない……声が鼓膜を震わせて脳に入りはするが、そこで煙に変わってしまう感じ……泣きそうになった僕は、この状況から逃れようと躍起になって口をもがかせた。

 

 ――よく分からないけど、僕はどこかおかしいらしいんです。周りから変な目で見られて、言われていることは理解できない……こっちの話も通じないし、いったいどういうことなのか……こんなこと言うのはアレかもしれませんけど、これが夢なのか現実なのかもはっきりしなくて……ともかく、こんな状況にはもう耐えられません! ここに連れて来られたってことは、やっぱり治療とか必要ってことなんでしょ? なら、治して下さい! 薬も飲むし、リハビリもやります! 手術だって受けます! だから、だからお願いします! 助けて下さいッ! 治して下さいッ! お願いですッッ!――

 

 噴き出す感情に任せてしゃべりにしゃべり――一方、新木医師はへの字口の渋面で固まり、僕の息が上がって言葉が途切れたところで後ろの付き添い3人に目を転じ、ゴムっぽい質感の左頬を左人差し指でコリコリかきながら何やら口にした。僕の頭越しに宇野田が話をし、ときどきマヤカやミユちゃんが加わる。ふん、ふんという調子で聞いていた新木医師は僕を避けて視線をデスク上に戻すとパソコンに向かってキーボードを叩き、それが済むと僕を一瞥し、宇野田たちに一言二言何か話してからまたデスクに向き直ってもうこちらを見る気配はなかった。どうなったのかさっぱりの僕は新木医師に説明を求めようとしたが、見えないシャッターを床まで隙間なく下ろし、次の患者のカルテを読む拒絶的な横顔に声が出なかった。そしてぽんと肩を宇野田に叩かれて振り仰ぎ、彼の心なしか和らいだ表情に促されて診察室を出ることになったのだった……




 僕はグレーカラーの絨毯の上にあぐらをかき、テレビと向かい合っていた……すぐ前には端にティッシュ箱が置かれたローテーブルがあり、その左右に宇野田とミユちゃんが黙って座っている。卓上左隅には薬袋やくたいが置かれ、黒で印刷された《毎食前 1日3回》の文字が僕の視線を引き寄せ、印字するかのように網膜に焼き付いてきて……ググッッと目を閉じ、別段面白くもないドラマの再放送に転じて集中しようとすると、視界の片隅に映っている薬袋がだんだん近付いてくる感じがして背筋が寒くなった。気を紛らわせようとキッチンで調理中のマヤカに顔を向けたとき、ちらとこっちをうかがった目と目が合って、僕らは互いに表情を強張らせ……瞬きし、唇をゆがめたマヤカは不自然な笑顔を残して前を向き、湯気を上げる鍋の中に菜箸を突っ込んでパスタをグリャグリャ踊らせた。夕方近くになってやっと薬局で薬を受け取り、マヤカたちに連れられてアパートに帰宅――上がり込んだマヤカは冷蔵庫や台所の棚を開け閉めしてパスタとナポリタンソースを見つけると料理に取りかかり、宇野田とミユちゃんは僕に付き添って出来上がりを待つことにしたらしい。ローテーブルの片隅に薬袋を置いて……

 薬袋におびえながらテレビを見ているうちに、キッチンからナポリタンソースが匂ってきた。思えば丸一日以上何も口にしておらず、空きっ腹がグゥーッと鳴った。マヤカはフォークを付けたナポリタンスパゲティ、ウーロン茶と水それぞれを注いだコップ二つをトレイに乗せてテーブルまで運んで来ると一つ一つ並べ、対面に腰を下ろして左右の2人と僕を注視……空腹にくらくらしていた僕は自分の病気を思い出して居ずまいを正し、満面に感謝をたたえた。

 

 ――ありがとう……いろいろ面倒をかけてしまって……本当にありがとう……

 

気持ちを込めたつもりだったけれど、3人はそれぞれ顔を曇らせたり、眉をひそめて苦笑いをしたり……動悸がして心拍数が上がる僕の前でマヤカが薬袋から薬を取り出し、卓上のティッシュ箱から取って広げたティッシュの上にぶち……ぶち……っと包装から出して乗せ、一回分量準備した。赤い錠剤が一つ……黄色い錠剤が一つ……薄青い錠剤が一つ……紅白のカプセル剤が一つ……計四つ……

 

 ……これを飲まなきゃいけないってことか……

 

 僕はそれらを一つ一つつまんで左手の平に乗せた。すると、朱と黄と薄青と紅白が野蛮なほどくっきりと――毒々しい色彩をむき出しにしたように見えたのでとっさに投げ出しそうになった。

 

 ……こ、これを飲めば、僕の病気は治る……治るんだよな?――

 

 正面と左右の顔をうかがうと、マヤカも宇野田もミユちゃんも内服を強いる視線を一点集中させる。圧倒された僕は救いがあると信じて覚悟を決め、ガバッと口に放り込み、コップの水をグイッと飲み干した。薬は喉を通って空っぽの胃袋に流れ込み、実況できそうなほどはっきり溶けていく……ハァッと息を吐いた僕を見る顔は、一様に柔らかで瞳は潤んでいた。きっと回復への一歩を喜んでくれているのだろう。

 

 ――ありがとう……

 

 微笑んだ僕は、腹の虫に急かされてフォークを目の前のパスタに絡め、口へ運んだ。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――!

 

 入れて噛みかけた瞬間、舌が爆発したかのような衝撃――僕はそれを思いっきり口から、生まれてこの方出したことがない叫びとともに噴き出した。唾液混じりのパスタは真正面のマヤカの顔面を見事なまでに直撃――ナポリタンカラーに彩られた彼女は悲鳴を上げてのけ反り、後ろの壁にゴンっとしたたか後頭部をぶつけてアパート中に響く音を出したが、僕はまったくもってそれどころじゃなかった。

 

――ぶェェッッ、べべべべッッッ!――あッ、あッ、あんだ、ごらァァッ――――!――

 

 それはナポリタンじゃなかった。少なくとも、自分が知っているものでは――いったい、どう表現したらいいのか――想像で無理矢理言い表すなら、そのときの歯ごたえはそう、泥臭いミミズの束を噛んで表皮と身がもろともにブチブチねちゃあっとなる感じで、そこらの刺激物など足元にも及ばない強烈な苦みで舌は悶絶――鼻腔は腐敗系の悪臭にめった突きされた。僕は絨毯にパスタとソースを残らず吐き出し、キッチンの流し台に行こうと立ち上がりかけてミユちゃんの上にドッと倒れてしまった。

 

 ――う、あっ、足が……?――

 

 骨を抜かれたかのような両足――しかも、輪郭がゆらゆら崩れかけて――そして、床に突いた手や膝がずぶっと沈む。フローリング床が泥――いや、まったく別の何かに変態しようとうごめいているようで――目を走らせると、部屋の壁も電子レンジや冷蔵庫などの家具も、あらゆるすべてがシュールにゆがみ、揺らめいている――

 

 ――どっ、どういう、どういうことなんだッ?――

 

 パニクった僕は下敷きにしたミユちゃんに目もくれず、両足に力を入れてよろめきながらどうにか立ち上がると、ともかく口中の汚染を洗い流そうと揺らめく壁にぶつかりながら流しへ――形が崩れた栓をひねり、ぐねぐねくねる蛇口に食らい付いた。

 

――ブほほッッッ!――

 

 噴き出され、流しとその周りに散るドロッドロの粘液――ベーベー、ゲーゲーと内臓まで出てきそうな嘔吐をした僕は、頭を焼き、砕かんばかりの熱と痛みで意識がかすれる頭を懸命に上げた。耳の奥で響く金属的なノイズが全身を痙攣させ、筆舌に尽くしがたい悪臭がどこからともなく漂って嗅覚を暴力的にレイプ――たまらず、流しに胃液を連続して吐く――

 

 ――う、はァ、はァ……ち、ちくしょう、い、いったい……?――

 

 汚れた口元を手とセーターの袖で拭い、この悪夢から逃げ出そうと玄関へ向かいかけた僕は背後に恐ろしい気配を感じ、脊髄反射的に振り返って絶叫した。

 部屋に立つ、三つの存在――

 マヤカたちの痕跡をわずかに残しながら溶けて崩れた顔と体をくねらせ、グニョグニョ伸ばすおぞましい怪物――そいつらの口らしい穴から漏れる悪臭にまた胃液がこみ上げる。もはやそこに僕の知っている彼、彼女たちはいなかった。マヤカでも宇野田でもミユちゃんでもない、まったく別の恐ろしい異形――消し飛びそうな正気を必死で保とうとする僕に、宇野田の名残を残す怪物が穴から唾液とセットでゲボォッと悪臭を噴き、右腕を大蛇さながらに伸ばしてつかみかかる。半狂乱で手を払い、飛びかかる《宇野田》を全力で蹴り飛ばすと、靴を履かず一目散に外へ――だが、またクラゲ化する下肢とぬかるむ共用廊下にバランスを崩して転び、そのまま外階段を下まで転がり落ちて――普通なら大ケガ間違いなしだったが、共用廊下も外階段も――建物全体がデロデロ揺らめいていたので大したダメージを受けずに止まった僕は、足腰の筋骨を意識して立ち上がろうとしたときに上半身や衣服も形が崩れ出していると気付いた。

 

 ――うわぁぁあああッッ! な、な、な、こッ、これはッッ?――

 

 そうわめく声もひずんで質が変わり、自分のものじゃない響きがした。容赦なく蹂躙していく異変に震え上がってすくみ――しかし、あの化け物たちを思い出して一刻も早く、1メートルでも遠くに逃げなければと這い這いして立ち、何度も何度も転びそうになりながら波打つアスファルト上で前のめりにダッシュ――逃走途中で他の人間たち――下校途中の小学生や中高生、自転車に乗った買い物帰りの主婦らしき名残を残した怪物たちと遭遇した僕は、逆上して襲いかかる連中から逃げまくり、揺らめく住宅街のラビリンスをめちゃくちゃに突っ走った。

 

 ――ぐッ……あ、頭が……!――

 

 上昇する熱で意識が沸き、悪寒で全身がガタガタ痙攣けいれん――コントロールを失いそうになりながら無我夢中で走り続け、頭痛で砕けそうな頭を両手で押さえる。

 

 ―――――?――――――――――――

 

 通りすがりに目の端をかすめた電柱の街区がいく表示板に捉われ、引っ張られた僕はぐねぐね身をくねらす電柱に取り付き、ヒップホップダンスよろしく踊る文字に目を凝らした。

 

 《西町六丁目 2》

 

 緑青ろくしょう色の街区表示板には、確かにそう表示されていた。《西町六丁目 2》……西町六丁目二番地のこと……当たり前だ。間違いない……が……

 

 ……西町六丁目二番地……ニシマチロクチョウメニバンチ……にしまちろ……――――

 

 《西町六丁目 2》という表示、それはここが西町六丁目二番地という場所ってこと――にもかかわらず、僕にはそれが突然あいまいになり、まったく異なる形、怪異な意味をむき出しにしようとしていると思われた。西は西ではなく、町は町ではなく、六も丁も目も2もそれとは違う―――――

 

 ――バカな……西は東西南北の西で、町は市町村の町、六は一、二、三、四、五の次の六で……それでもって《西町六丁目 2》は《西町六丁目二番地》ってことだろ? そうだろ? 決まってるじゃないか?――

 

 自問自答するものの、やっぱりそれは《西町六丁目 2》じゃなかった。認識を粉砕した《西町六丁目 2》は、まったく別の、毛穴から脂汗をドクドクあふれさせる正体を見せようともがいていたが、僕には《西》《町》《六》《丁》《目》《2》という文字一つ一つはもちろん、《西町六丁目 2》という組み合わせも、自分が知っている《西町六丁目 2》ではないという程度までしか分からなかった。

 

 ――そ、そんな訳ない! そんな……!――

 

 揺らめきに取りすがっている背後から悪臭混じりに飛んできた咆哮――腰を抜かしかけて振り返り、30メートルくらい後ろから迫るスライムゾンビもとい《マヤカたち》を見て飛び上がった僕は慌てて電柱から離れた。

 

 ――どっ、ど、どこへ――?

 

 ジーンズの後ろポケットに財布は入っていたが、こんな状況でタクシーや電車に乗ってもまともに逃げられるとは思えなかった。試みたところで運転手や乗客が怪物化していたら捕まってしまうだろう。捕まったらどうなるのか――またあの薬を飲まされるのか? そしたらどうなる? 一度飲んだ結果がこれなのに、さらに飲まされたら?――あらゆるものがカオスな世界のどこに逃げればいいのかまったく分からなかったが、僕は倒れ込みそうな肉体を繰り返し鞭打ち、だんだんと日が暮れて薄暗くなっていく地上をひたすら、一心不乱に走り続けた……




 靴下越しにひりつく、地面の冷たさ……セーターとアンダーウェア、ジーンズの隙間から肌をえぐる夜気……うっそうとした陰に身を潜め、僕はガチガチ歯を鳴らして左右の二の腕を何度もさすった。凶暴な熱と頭痛、耳の奥でヒスっていたノイズはいくらか落ち着き、自分の揺らぎもそれに比例していたが、世界は小休止しているみたいではあるが依然揺らめき猛っており、しゃがみ込んでぶるぶる震えている僕を隠す低木が脈打つように枝葉をうごめかせている。

 緑地りょくち――

 青ざめ、暮れていく地上を逃げ続けた僕はフェンスに囲まれた林を見つけて飛び込み、そばの道路を行き交う怪物たちにおびえて暗がりの奥へ身を隠し、息を殺していた。夜陰の濃さから推測すると、ここに潜んでかれこれ数時間は経っているだろう。

 僕は逃げ込むとき目にした、石ベンチ上に放置された新聞が気になって仕方なかった。あれに載っていることが果たしてちゃんと理解できるのか、自分の頭がどれだけまともに戻ったのか確かめたい……《西町六丁目 2》を始め、逃走中見かけた幾つもの看板や張り紙広告の内容が分からなかった僕はあらためて振り返ってみたが、こんな闇に沈んでいるせいか、考えれば考えるほど深みにはまっていく……焦り、揺るぎないはずの事柄を思い付くまま並べてみるが、病んだ意識で照らした途端どれほど基本的かつ常識的なことも言葉もろとも崩れてメタモルフォーゼしようとする。

 

 ……朝の挨拶《おはようございます》は、《おはようございます》って発音で、こう書くだろ?……なのに……なのに、どうして《おはようございます》が《おはようございます》じゃなく思えてくるんだ? 《おはようございます》だけじゃない。《朝》も《挨拶》も、何もかもが――

 

 発音も文字も、言葉が表す意味までもがゆがみ、崩壊して……狂っていく認識、世界に抗って頭を両手でわしづかみ、ギリギリギリギリ歯ぎしりして再確認を試みるが、どれもこれも《西町六丁目 2》や《おはようございます》と同じ経過をたどる……確かに《人類は猿から進化した》のか、本当に《地球は丸い形をして自転している》のだろうか、エトセトラ、エトセトラ……断言できなくなり、もっともよく知っている自分を俎上そじょうに載せようとしたが……こみ上げる恐ろしさに負け、止めてしまった……

 

 ……こんな暗がりでぐずぐず考えているから……ともかく、あの新聞に載ってることが理解……少なくともある程度できれば、僕は正常に戻ってきているってことだ……それなら、そのうちこんな悪夢も終わるはず……

 

 ハンマーにおびえるモグラ叩きゲームのモグラばりにビクビク頭を上げ、人気が無い辺りをうかがう……薄闇の中で鉄格子にも見える広葉樹群が無秩序に枝葉を踊らせ、地面は落ち葉や折れた小枝、まだらな下生えと揺らめく……道路側から街灯に薄ぼんやり照らされる緑地は、意思を持った生物のごとくうごめいている。僕は忍び足で陰から出、フェンスの外――道路や付近の戸建に気配が無いのを慎重に確かめてから十数メートル離れた石ベンチまでダダッと小走りに近付き、新聞紙をつかんだ。と――思いがけずネバァッッとした感触があって、反射的に手を放すと新聞紙との間にグレーの糸がツゥーッと引く。意を決し、くびらんばかりに新聞紙をつかんだ僕は街灯の粉っぽい白色光がかろうじて届く場所に移動して木陰にしゃがみ、粘つく新聞――スポーツ紙をにらんでだ。一面には、《ゴンボ東京 横浜ジェネラルに四得点で第九十四回天皇杯全日本サッカー大会四連覇》という見出しがあり、その横に黄色のユニフォームを着た選手を抜いて赤いユニフォームの選手がシュートを決める瞬間――ちょうどボールを蹴って足を上げている写真がでかでかと載っていた。

 

 ……これはサッカーの試合内容を伝えた記事……内容だってちゃんと理解できる……こっちは決勝ゴールを決めた瞬間の写真だ……

 

 しかし、気を抜くと新聞もろともそれらが変態してしまいそうで……僕は不安に駆られて記事を握り締めた。

 

 ――とにかく、僕にはこの新聞に書かれていることが分かる……! ちゃんと……ちゃんと分かるんだ!――

 

 必死に言い聞かせていると、首筋にヒヤッとしたものを感じて振り返り――僕は恐怖のあまりそそけ立った。いつの間に、どこから現れたのか――少女が――ガーリーロング少女が背後、薄闇の中に立って僕をじっと見下ろしていた。異形の怪物ではない――気温一桁の中薄手の半袖黒ワンピという服装以外まともな姿形の少女は、ショックのあまり息を止めて凍り付いた僕を冷然と見つめた。

 

 ……助けてあげましょうか?――

 

 氷の冷たさで低く響いた声……僕はようやく息を吹き返した。黙って見つめられていたら、そのまま窒息死していたかもしれない。

 

 ……へ……?――

 

 ――助けてあげるわ、あなたを――

 

 幽霊なのか幻覚なのか不明な存在と会話している――だが、周りが怪物に変わり、世界が崩れて揺らめく事態に飲まれている自分には、同じ姿形をし、理解できる言葉を話している相手に親近感さえ覚えた。

 

 ――お、お前は何なんだ? 幽霊、それともただの幻覚か?――

 

 少女は真っ赤な唇をつり上げて微笑し、僕の横をすり抜けて緑地出入口の方へ滑るように歩き出した。

 

 ――お、ちょっ――

 

 ――助かりたいんでしょ?――

 

 少しだけ振り向いて冷やかに誘い、少女は歩いて行く……正体は謎だが、今はこれにかけるしかない――腹をくくった僕は、周りを警戒しつつ黒ワンピ姿を追った。




 行き先も告げられないまま、僕はガーリーロング少女の後に付いて濁った光を発する街灯の下を歩いた。当然、飼い犬の散歩をしている女性や帰宅途中の会社員らしい人間の名残を残して崩れ、揺らめくスライムゾンビたちと遭遇することになった僕は、そのたびに少女の陰に隠れようとした。もちろん隠れきれるものではなかったが、不思議なことに怪物たちは僕に目を止めるものの目立った反応をせずに去って行く……まるで少女が魔除けか、免罪符代わりでもあるかのように……

 やがて、行く手に古びた団地の棟が現れた。薄汚れた灯りを漏らし、揺らめきながら墓石のごとく立ち並ぶ棟が近付くにつれ、僕は今にもこの団地がこちらへ倒れ、自分を押し潰す気がして怖くなり、前を歩く少女を頼りに、ぬかるみ、揺らめく地面を踏みしめて黙々と団地の敷地内を進んだ。

 

 ――ここよ――

 

 不意に立ち止まって振り返った少女が唐突にそう告げ、壁面上部に《14》と数字がふられた棟を黒く反り返ったまつ毛と美しくも鋭利な目で示した。築40年か、それ以上……エレベーターなど設置されていない、ほとんど廃墟に近い棟の端にある階段へピンクのバレエパンプスを履いた足を向ける少女……毛先がうねる黒髪と喪服のような色の半袖ワンピースの背中を見つめた僕は、少女の美しさに魅了されている自分に気付いた。今までは恐ろしさが先立って、とてもまともに観察なんてできたものじゃなかったが、凡百のアイドルや女優では比較にならない、この世ならぬ冷艶れいえんさ……だけど、引かれるほど心のどこかがそれを止めようとする。なぜだろう?――

 疑問を抱きながら階段を上がっていくうち、僕らは最上階――6階に達していた。共用廊下を歩いて行く少女は《606》と番号が付いた青い扉の前で立ち止まり、ドアノブを回して開け、中に入った。後に続いて暗い玄関に入った途端、いきなり床まで届きそうな暖簾のれんが揺らめいていて僕は面喰ってしまった。少女が壁のスイッチを入れると、その長い暖簾が色褪せた群青ぐんじょう色をあらわにし、その向こうに揺らいだ室内――ダイニングキッチンが浮かび上がった。シンク、ガスコンロ、ネイビーブルーの2ドア冷蔵庫、ブラックの電子レンジ……入って見回すと、家具はそれなりにあるようだったが、テーブルや椅子が無いダイニングキッチンはフローリング床がむき出しで生活感が乏しい。それに……強烈な悪臭――あの怪物たちの臭いがどこかからうっすらと漂ってくる……罠にはめられたのかとビクビクして部屋の中をうかがう僕を尻目に、少女は奥に置かれた冷蔵庫脇のふすまを開けた。

 

 ――うぶォッ!――

 

 開けた途端中から悪臭がどっと押し寄せ――ショックでよろめき、尻もちをついた僕は我慢できずに黄色い胃液を床に吐いた。

 

 ――ねぇ、これ見て――

 

 這って玄関へ向かおうとするのを引き止める少女の声――僕は操られるように立ち上がり、足をふらつかせてふすまに近付くと、少女の目に促されて部屋の中をのぞいた。

 

 ――こッ!――

 

 両手で口を押さえ、込み上げる吐き気を抑えて――僕は木製の台に乗ったテレビや電気ストーブ、本棚が置かれ、深緑色のカーテンが閉められているその六畳間に転がっているものに目玉を飛び出させた。それは太い鎖といくつもの南京錠でがんじがらめにされたスライムゾンビの怪物――何が何だか分からず金縛りにかかる僕、その僕に冷たく目を細める少女……部屋の隅に置かれた電気ストーブが赤く燃え、乾いた空気が僕の頬をいっそう強張らせる。

 

 ――これ、どう思う?――

 

 目を見開いて疑問顔を向けた僕は、少女の右手にいつの間にか握られた果物ナイフに縮み上がった。ナイフの切っ先で虚空にくるくる円を描いた少女はおもむろに六畳間に入り、拘束されている怪物の脇でいわゆる女座りをした。

 

 ――ど、ど、ど、どうって……?――

 

 混乱――と、少女はいきなり果物ナイフを逆手に持つや揺らめく畳にザスッと突き立て、ちびりそうになる僕の前で腹でも引き裂くみたいにズ、ズズ、ズズ……と手前へ引いた。すると切り裂かれたところからゴキブリとも蝿ともつかない小さな虫がどっと部屋中、僕がいるリビングまであふれ出て床や壁をザザザザッーと走り、甲高い羽音を交錯させて飛び交った。悲鳴を上げて足踏みし、虫たちに飛びかかられて腕を振り回していた僕は、鎖と南京錠で拘束されている怪物がアリクイみたいな長くべたついた舌を口から何本も伸ばして虫を捕まえ、食っているのを見て一時停止してしまい、その隙に無数の虫が顔に取り付いたことで半狂乱――足をもつれさせ、仰向けにでーんと転んでしまった。

 

 ――はわわわ、わわわわわわわわわわわわがわわわわわわわわッッッ――!――

 

 虫を払い落し、袖や襟、裾から侵入して肌を這うヤツをセーターやジーンズの上からバンバン叩き殺す――肌と衣服の間で潰れた虫から生じる、どぶ臭い悪臭が鼻と口から侵入して喉に流れ込み、僕は股間に顔を突っ込まんばかりに体を折り曲げて激しくむせた。

 

 ――なッ、何のつもりだ! こんなことして、どうしようって言うんだ!――

 

 ――これは、何?――

 

 呼吸が乱れた僕に、少女は輪郭が微かに揺らめく果物ナイフの刃にすらっとした指を滑らせながら質問した。

 

 ……は? そ、それは、それはナイフ、だろ、果物ナイフ……

 

 ――それじゃ、私は今、何をしたかしら?――

 

 ……え……そ、そのナイフで……畳を刺して……

 

 ――へぇ……

 

 ニョリニョリと音を立てて捕まえた虫を咀嚼そしゃくしている怪物に刃先が向けられ、いきなり鎖の間からグサグサ突き刺す――怪物が口から虫の残骸を飛ばしてこの世のものじゃない悲鳴を響かせると、傷口からイトミミズみたいな生物の群れがどくどく這い出して畳の上に散らばり、グネグネグネグネくねった。

 

 ――これは果物ナイフで、私はこの果物ナイフでこいつを刺しまくった。その根拠はあなたがそう認識しているから……そういうことね。それじゃ、あなたが恋人や友人と思っていた人たちは確かにそうで、その人たちの言動もズレは無かったかしら?――

 

 答えに窮する僕に、少女はゆらりと立ち上がって一歩間合いを詰めた。

 

 ――あなたの現実は、まだ大分ゆがんでいる。このナイフも、私がしていることも、あなたが認識しているより遥かにすさまじいものなのよ。あなたにとっては、ね――

 

小康状態だった症状が加速度的に悪化――頭が熱くしびれて意識が霞んでいく――脳が粉々になりそうな頭痛、体内が空洞になったような寒気、今にも溶け崩れそうな下肢――意識がどんどん混濁して全身揺らめく僕は、少女の持っているナイフがナイフであるという確信が持てなくなっていた。果物ナイフに見えているものが何かおぞましいものにぼやけ始め、《ナ》《イ》《フ》という言葉そのものが正体を現そうと胎動――が、それを許してしまったとき破局が訪れる予感のいかずちに打たれた僕は、《それ》を《ナイフ》に封印しようと必死にあがいた。

 

――ナイフだ……それはナイフだッ! ナはナメコのナ、イはインコのイ、フはフリーズのフでナ・イ・フ、だ! ナイフはナイフなんだ、ナイフなんだよ!――

 

 叫び、虫が走るぬかるんだ床を踏みつつじりじり玄関の方へ後退……なけなしの気力を振り絞ってにらみつける僕を少女は蔑みと憐みが吹雪ふぶく目で見据え、小さくため息をついた。

 

 ――やっぱり無理なようね。分かってはいたことだけど……――

 

 果物ナイフを逆手に握った右手がスウッと振り上げられ、能面顔が標的――僕に狙いを定める。

 

 ――やっ、やめろ、ふざけんなッ! い、い、いくら夢だからってこんな狂った展開、僕は絶対認めないぞッッ! 早く覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろったら覚めろォォォォォォォォォォ―――――――――――

 

 揺らめき、崩れかかった自分の顔をめったやたらに殴りつけ――死に物狂いで目覚めようとするが、痛みが蓄積されていくばかりで夢オチにつながりそうな気配は無い。

 

 ――残念だけど、ごめんなさい――

 

 ナイフを振り上げていた少女が、無表情のままいきなり踏み込んで跳びかかる――壊れた笛に似た叫びを発した僕は紙一重で刃をかわすと全速力で玄関ドアから表に飛び出し、階段を転げ落ちるように駆け下りた。下で出くわした怪物たちが猛り狂い、総毛立つ咆哮を重ねて群がり――それらから伸びるいくつもの手をかいくぐった僕は、夜の暗黒を闇雲に逃げ続けた……




 次第に崩れていく世界で当ての無い逃走を続け……その末に僕は河川敷に倒れて転がった。その前ではねっとりとした黒い川が闇の奥から揺らめき流れ、漆黒の地平へ飲み込まれていく……しびれを伴う高熱で溶解し、砕けて中から何かが飛び出しそうな激痛にさいなまれる頭……すさまじい寒気と怖気で震えが止まらない体……輪郭もろともどろどろ揺らめき、手足の感覚が薄れていく肉体をどうにかこうにか動かして起き上がった僕は膝をきつく抱えて草の上に座り、混沌とした視界を横一線に切断する黒い川を見つめた。

 

 ……いったい、いつまでこの悪夢は続くんだ?……どれだけ逃げ続ければいいんだ……?――

 

 ――逃げられないわよ――

 

 突然背後から無情に突き刺さる冷たい声――愕然がくぜんとし、グラグラ腰を浮かす僕の近くに現れた少女――

 

 ――逃げることなんて、できないわよ。私は、あなたなんだから――

 

 ――はっ?――

 

 腰が引けた格好で理解不能に陥る僕に、果物ナイフを逆手に持った右手をスッと上げ、少女は薄く笑った。

 

 ――私は、あなたが封印してきた真実の化身。あなたはね、ずっと夢を見ていたの。生まれたときからずっと、自分の脳内で作り上げられたフィクションの中で生きていたのよ――

 

 ――ぼ、僕が夢を見ていただって? これまでの人生が……すべて幻だって言うのか?――

 

 ――そうよ。かわいそうにあなたは頭がおかしいアブノーマルだったの。正常ならいわゆる怪物たちの世界に適合できたのに、異常なあなたにはそれができなかった。生まれ落ちて世界を認識した瞬間狂い死にしてしまうと感じ取ったあなたは、胎児の間から無意識に虚構を構築してそこに逃げ込んだ。つまり防衛本能ってものね。そうして現実を自分の世界に合わせて錯覚したの。恋人でも友達でもないものをそうだと認識したようにあらゆる刺激を都合良く変換し、そつなくレスポンスもしてきた。そうやって現実に適応し、自分も周りも欺いてきたってわけ。でも、もう限界。残念だけど、あなたの世界を守り、現実に対する壁となっていたものが長年の摩擦に耐えかねているのよ。真実をねじ曲げ続けるのは、意識にとって想像もつかないほどのストレスだもの――

 

 少女の背後に無数の影が――ガラスを引っかかれる何百倍も鳥肌が立つ鳴き声を上げ、吐き気をもよおす悪臭を噴く異形のモンスター群、その最前列には《マヤカ》《宇野田》《ミユちゃん》の姿が――

 

 ――ま、待ってくれよッ! 助けるって言ったじゃないか? 僕は嫌だよ! 頼むから……頼むから助けてくれよッ! このままそっとしておいてくれよッッ!――

 

 ――言ったでしょ、もう限界だって。だから助けてあげる。いつまでも崖っぷちで苦しんでいるくらいならひと思いに突き落された方が楽になれるでしょ。大丈夫、そう長くはかからないわ。本当の現実、本当の自分を認識して狂い死にするまでに。多分ね。さ、――

 

 逃げようとして体勢を崩した僕の胸に刃がズグッと突き刺さる。あふれる鮮血とそれに混じる無数のイトミミズが、果物ナイフを逆手に握る白い手をぬらぬら汚す。

 

 ――壊してあげる。あなたがあなたであるという、ゆがんだ認識を――

 

 少女の姿が醜く揺らいで悪臭を放ち、それに連鎖してすべてが一気に崩れていく……世界も僕も混沌に飲み下され、そして――