REBEL∝VECTOR

小説/イラスト/詩/俳句 ©NaG∀T∴

(8)

 雪に点々と印される血の跡が、瞬く間に白く消されていく……いくらか弱まったとはいえ、まだ強く吹き荒ぶ雪の中をシグルは血まみれの肉体を引きずり、額の傷から流れる血で視界を赤く染められながら、這うように一歩一歩山をのぼっていた。

 その頭には、もはや角は無かった。

 折れた右の角は、オージュのむくろの胸に突き刺さったままで、もう雪に半ば埋もれているだろう。残った討伐隊のシカたちは、狂気の核だったオージュとフルーを失ってぼう然とし、左右の角を折り、血まみれになりながら立ちはだかるシグルの鬼気迫る姿に恐れをなして山から転がり落ちていった。

 ようやく赤く霞んだ視界に見覚えのある大木が、その脇に弱々しく立っている子オオカミの小さな姿が映る。雄シカの有様に驚いて声も出ない幼子の傍らまでたどり着くと、シグルは力尽きて倒れた。顔の右側が雪に埋もれ、半開きの口から魂が白い息とともに少しずつ抜けていく。

 

「……お前、いったい……」

 

 目の前に息も絶え絶えで横たわる雄シカに動揺しながら、子オオカミはどうにか声を出した。

 

「……さっきまで下の方で恐ろしい声が聞こえていた……お前、あの恐ろしいものと戦っていたのか? 僕を守るために?……僕の仲間は、お前の母ちゃんと父ちゃんを殺して食べたんだろ? なのに、どうして……」

 

 シグルは揺れる子オオカミの目に焦点を合わせ、幼く、まだ濁っていない瞳を見つめた。

 

「……お前……名前は何て言う……?」

「え?」

「お前の名前だ……両親からもらった……」

「……ラウ……ラウだ。僕の名前は……」

「ラウ……か」

 

 シグルは子オオカミの、ラウという名前を口の中で包むようにつぶやいた。

 

「俺の……名前はシグル……だ……」

「シグル……」

 

 シグルは重くなるまぶたを押し上げ、力無くあえぎながら声を振り絞った。

 

「……俺を食え、ラウ……」

「……え?」

「俺を食うんだ……俺は、じきに死ぬ……そしたら、この体を遠慮なく食べろ……そうすれば、きっとお前は生き延びられる……腹が膨れれば、力もついて元気になれるはず……だ……」

「な、何を言ってるんだ、死ぬなんて……そんなはずないだろ。こんな、僕なんかより何倍もでかいくせに……! 僕はまだ母ちゃんと父ちゃんのかたきを取ってないんだぞ! なのに、勝手に死んじゃうなんて、ず、ずるいじゃないかっ!」

 

 うろたえ、ラウは小さな体を左右に揺らした。それをシグルは静かに見つめ、口から深く息を吐いた。

 

「……らない……」

「え?」

「……俺には、分からない……なぜオオカミがいて、シカがいるのか……なぜ俺たちがこんなさだめにあるのか……だが、せめてお前には知って欲しいんだ……お前の血肉になるのが、何者なのかを……」

「……お前……! お前は……! 何で……! 何でなんだ! 何で! どうしてなんだ! どうして……!」

 

 悔しみとも悲しみともつかない涙がラウの両目からあふれ、頬の柔らかな毛を濡らす。

 

「……ラウ……お前たちが、俺たちシカや他の動物を食べざるを得ないのなら……忘れるな……俺たちは餌じゃない……お前たちと同じように生きて……」

 最後の方は、もう声が出なかった。自分を見つめるラウの顔がぼやけていくのを見るシグルはいつになく静謐せいひつな心地になり、憎しみに憑かれていた時間がはるか遠くに流れ去っていった。

 

(……マルテ……)

 

 ふと、マルテの美しい顔が、ぼんやりラウに重なった。

 

(……すまなかったな……)

 

 今ならばきっと彼女を、彼女の気持ちを理解できるだろう……シグルは自分の瞳いっぱいに溶けてくるマルテとラウに微笑み、安らかにまぶたを下ろした……

 



 涙に濡れた顔を上げ、マルテはそっと耳をそばだてた。深い夜が彼女の前に広がる雪原に沈殿し、雪がしんしんと降る。まるで今朝までの猛吹雪が幻だったかのようだった。

 

(……シグル……)

 

 マルテはそっと、帰らぬ者の名を呼んだ。

 謹慎処分を受けていたシグルが討伐隊の後を追ったと聞いたとき、マルテは恐ろしい予感で胸が張り裂けそうになり、自分も山にのぼろうとしたものの、群れのシカたちに阻まれて果たせず、どうか無事にシグルが、そして討伐隊の雄たちも戻ってきますようにと祈った。

 しかし、その願いはかなわなかった。

 地平に厚く積もった雪雲の向こうで陽が昇り、発狂していた天候が正気を取り戻し始めた頃、雪崩なだれるように戻って来た血だらけの討伐隊に群れは大騒ぎになり、気が狂ったシグルにオージュとフルーが殺され、他の雄たちも重軽傷を負ったこと――致命傷を受けたシグルも、病と飢えで衰弱しているらしい子オオカミもおそらく生きてはいないだろうという話で持ち切りになった。皆が子オオカミを助けて仲間を死傷させたシグルを口汚くののしることにいたたまれず、マルテは林の中心から離れ、この雪原に独り立っていた。

 

(……シグル……あなたはオオカミの子を守ったのね……)

 

 ――どうしてシカがいて、オオカミがいるんだ――

 

 あのときのシグルの叫びが、マルテの耳によみがえる。

 

 ――どうして――

 

 その答えは、マルテにも分からなかった。だが彼女は、討伐隊から伝え聞いたシグルの言動から、彼があがき求めたものをはっきり知った。

 

(――!)

 

 ぴくっと耳を動かしたマルテは、顔を上げて背後――山の頂を振り仰いだ。

 

(……聞こえる……オオカミの……子どもの遠吠え……きっと、シグルが言っていた子の……)

 

 静かに雪降る夜の彼方から繰り返し聞こえてくる、幼い遠吠え――それは歌っていた。大切な者を失った悲しみを、自分の運命に対する苦しみを。その叫びはマルテの心に染み渡り、潤んだ瞳から熱い涙があふれて頬を濡らした。

 

(……あなたも……なのね……)

 

 遠吠えがやんだそのとき、林の中心の方がにわかに騒がしくなり、シカたちが浮足立っている気配が伝わってきた。顔を振って涙を払い、表情を引き締めてそちらに足を向けてみると、シカたちが樹間を右往左往しており、飛び交う言葉から今し方の遠吠えに動揺しているのだと分かった。マルテはすれ違うシカたちに安心するように声をかけ、とくに不穏な気を放っている群れの中心――長老とその周りに集まっている傷だらけの雄たちに歩み寄った。

 

 ――長老、群れが襲われます! 何とかしませんと!――

 ――仲間を呼び寄せようとしているんです! 我々への報復を企てているんですよ!――

 

 狼狽ろうばいした雄たちに囲まれた長老は、ううむ、とうなったまま、指示を出しかねていた。シグルやオージュといった要になりうる存在を失い、戻って来た雄たちが皆手負いという状況では、群れを守ることすら難しいと思われたからである。

 

「大丈夫よ」

 

 マルテは雄たちに声をかけた。一斉に顔を向け、落ち着き払った雰囲気にたじろいで体をどかす彼等の間を通り、彼女は長老の前に立った。

 

「マルテ……?」

「長老……」

 

 マルテは、いつもと少し違う様子に戸惑う目をまっすぐ見つめると、

 

「――心配いりません、長老。あの子オオカミは私たちを襲おうとしているわけでも、仲間を呼び寄せようとしたのでもありません」

 

 と、きっぱり言い切った。

 

「……なぜ、断言できる?」

「あの子は泣いているんです。自分の家族を……自分を守ってくれたシグルを失ったことを。そして運命を悲しんで、それでも前へ進もうとしている……それだけなんです」

 

 聞いていた雄たちは顔を見合わせ、そして、何を言っているんだ、おかしいんじゃないかと声を荒げた。だが、マルテはそうした声にたじろがず、しっかりと雪の上に立ち続けた。

 

「お前たち、静かにせんか」

 

 長老は周りを黙らせるとマルテに目を据えたが、その瞳はうまく焦点を合わせられていなかった。

 

「……シグルを失ったことを、だと? あの子オオカミがシグルと心を通い合わせたとでも言うのか?」

「そうです。あの声に耳を傾けていれば、お分かりになったはずです」

「ふむ……」

 

 長老は、ううん、と痰が絡んだ咳払いをして渋面じゅうめんを作った。

 

「シグルは、あの子オオカミを助けたのだ。感謝されたとしてもおかしくはないだろうな」

「そういうことではありません」

 

 マルテは耳に残る遠吠えを聞き、その響きを与えたシグルを思って続けた。

 

「そんな薄っぺらなことではないんです。シグルはあの子、オオカミにも自分と同じように家族があり、生きていくために他の動物を狩らなければいけないことに悩んでいました。そして、敵対するだけの関係を超えようとあの子のところに走ったんです。その結果が、あの遠吠えに込められた心……シグルとあの子は、お互いを自分と同じ命だと認め合えた……私はそう確信しています」

 

 うろたえていた雌や子どもたちがやり取りを聞きつけて集まって来る中、揺るぎ無いまなざしで語るマルテに、長老は口をへの字に曲げ、老いて濁った目を狭めた。

 

「……仮にお前の言うことが正しいとして、だからどうなると言うのだ? 生きていく限り、あの子オオカミは肉を食わなければならない。それはつまり、いずれは他の動物……我々を襲いに来るということだぞ。そのときに何だ? お前は、まさか自分を差し出すつもりか?」

 

 同調する失笑や怒りが周りから浴びせられる。だが、マルテはシグルと、子オオカミとの一体感を力にして答えた。

 

「戦います」

「んん?」

「私は戦います、長老。私を生んでくれた両親のため、短い生涯を終えた姉のために、私は生きます。精一杯生きて、戦って、それでもいつかオオカミの牙にかかるときが来るかもしれない……そのときは、覚悟をします」

 

 その宣言にまたざわめくシカたちを長老は黙らせると、

 

「……勇ましいな、マルテ……お前の気持ちは分かった」

 

 と言い、集まった同胞に向かって、

 

「マルテの言う通り、我々は生きなければならん、戦わなければならん! 今夜のところは無事に済むかもしれんが、またいつオオカミが襲ってくるか分からん。早々に群れを立て直さなければならんぞ!」

 

 と、叱咤した。それによって生じた熱気にむせ返りそうになったマルテは、長老に賛同して高ぶる一群から抜け出し、少し疲れた足取りで林を歩いた。そして再び雪原に戻ると、降る雪に構わず樹林から出て、さく、さく、と雪を踏んで足跡を残しながら白銀の地を歩いた。すると、また山頂の方から幼い遠吠えが響いてきた。

 

(忘れないで……)

 

 立ち止まって向き直ったマルテは、山頂を仰ぎ見て一声鳴いた。鳴き声は雪が舞う夜空に響いて林に広がり、それに共鳴するように上がる遠吠えが山並みを越えていく。それにまたマルテは鳴き声を返した。

 

(――精一杯生きて、もしあなたと戦うことになって力及ばず死を迎えるときが来たら、そのときは潔くこの命を差し出しましょう。あなたにあげるのなら、きっと心残りは無いから――)

 

 そして、マルテは再び聞こえた遠吠えに重ね、白く光る雪の中でひと際高く天へと鳴いた。