REBEL∝VECTOR

小説/イラスト/詩/俳句 ©NaG∀T∴

(4)

 未明、シグルは硬い雪を掘り、秋のうちに土の下に蓄えておいた木の実で軽く腹ごしらえを済ませると、仲間に気付かれないように林を抜け出して吹雪の山をのぼった。

 

 ――あの子オオカミを、殺す――

 

 痛みが残る右後ろ足を心持ち引きずり、拒むように枝を伸ばす低木の間を縫って黙然と進む。昨日、殺さずに戻った後悔が、シグルの顔をひどく荒ませていた。

 

(……弱っている子どもとはいえ、オオカミを捨て置くなんて……!)

 

 両親を返せという罵りが何だというのか? 天敵の泣き言を気に病む必要がどこにあるのか?

 自分の間違いを正す――駆り立てられるシグルは、わずかに雪に残った自分のにおい、そして記憶を頼りに吹き下りてくる雪にまみれながら歩き、やがて横穴が見えるはずの場所までやって来た。横穴は勢いを増す雪に半ば埋もれており、シグルははっきりそれと分かるまで近寄らなければならなかった。

 

(……もう死んだ……か?)

 

 風雪を嗅ぎながら、シグルは横穴をうかがった。微かにオオカミの臭いは漏れてくるが、出て来る気配は無い。しかし、尖った耳をそばだててみると、何やらすすり泣きのようなものが聞こえる。足を忍ばせて穴の脇に立ち、長い首をそっと下げて中をのぞくと、よどんだ暗闇の奥で灰色の小さな体が丸まって震えており、夜目が利くシグルの瞳にギュッとつぶられた両目、冷たく濡れた目元と頬がうっすら映る。

 

(―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!)

 

 心臓に杭を突き立てられるショックを受け、シグルはよろめいた。相手がオオカミの子だと一瞬忘れ、同情の念が胸奥から湧く。

 

(――バカな……!)

 

 かあっと顔が熱くなり、歯がぎりぎりかみ締められる。オオカミの子を憐れんだ己に怒りが沸騰し、噴き出る息が吹雪に激しく散った。

 

(――相手は、オオカミなんだぞ!)

 

 左右にぶんぶんかぶりを振ったシグルはまた横穴をのぞき、おい、と怒鳴り声を投げ込んだ。

 

「……あ……!」

 

 びくっと耳を震わせてまぶたを上げた子オオカミは、横穴をのぞく細長い顔にはっとし、やがて熱っぽい両目の刃を抜き放ってよろよろ立ち上がった。シグルが横穴から素早く離れて間も無く幼獣は埋もれかけた穴から顔を出したが――

 

「――あッ!」

 

 出て来たところで足を踏み外し、急斜面を転がって雪まみれになる子オオカミ。緩んだ傾斜で痛みにうめきながら立ち上がって向けられた顔――泣き腫らした目と涙で濡れた頬をはっきり目にし、シグルは直視に耐えない苦痛を感じた。そんな動揺を知らない子オオカミがおぼつかない構えを取ったとき、しぼんだ腹からキュウゥ……と消え入りそうな音が漏れた。

 

(……こいつ……)

 

 恥ずかしさに左の頬を引きつらせ、幼い牙をむいて踏ん張ったまま動かない子オオカミを見て、シグルは悟った。今にも風雪に倒されそうな体には、戦う力などろくに残っていないのだろう。病に侵されているうえに食べ物が無ければ、弱っていくばかり。加えて昨日の戦いでの消耗――角で殴られ、木にぶつかったダメージもある。飛びかかって来たなら、反射的に殺せたかもしれない。だが、いかにオオカミとはいえ、両親を殺されて嘆き悲しんでいる幼子を、弱って満足に動けないものをこちらから殺しにかかるというのは……――

 

(……オオカミは殺す……! こいつは俺が殺すんだ……! そのためにここにいるんだろ……!)

 

 しかし、野次るようにわめく吹雪の中、にらみ合いは続いた。互いの体毛が白くなり、このままだと先に子オオカミが雪像になるのではないかと思われたとき、こう着状態が崩れた。憎しみに燃えていた子オオカミの目がだんだんうつろになり、まぶたが落ちると幼い体が雪上に吹き倒された。その瞬間、四肢をこわばらせたシグルだったが、すぐに横たわった相手を冷静に見据え、生死を確かめようと慎重に近付いた。

 

(……息は、まだある……)

 

 病と空腹で衰弱しているところへ寒さと緊張に追い打ちをかけられ、気を失ったらしい……数歩先に倒れている子オオカミの顔をのぞき込んだシグルは、悔しさと悲しみが固まっているのを見、重い胸苦しさを感じて後ずさった。

 

(……このままなら、間違いなく凍死する……死ぬんだ……)

 

 シグルは背を向け、吹雪に押されながら山を下り始めた。だが、歩くたびになぜかひづめが鉄塊のごとく重くなり、右後ろ足の傷がうずいて歩みを止めさせた。

 

(……どうせ、死ぬんだろ……!)

 

 我知らず歯ぎしりをするシグルはアンバランスな表情で振り返り、引き返した。子オオカミは無念そうな顔のまま、雪に埋もれ始めていた。

 

(……くっ……!)

 

 情けと言うのか、それともあわれみと表現すべきなのか――こんなところに埋もれさせるのではなく、せめて両親のにおいが残る巣穴の中で息絶えさせてやろうとシグルは思った。それは、同じように両親を奪われた境遇がさせたことだったのかもしれない。シグルは鼻をそろそろと近付けて意識が無いのを確かめると、かぱっと口を開けて子オオカミの首を軽くかんだ。口中が柔らかい毛で満ち、こそばゆく感じられる。幼い体をゆっくりと持ち上げると、あごと首にずしり、と重みがかかった。

 

(……何をやっているんだ……俺は……)

 

 顔のしわを複雑にしたシグルは、くわえた子オオカミを横穴へと運び――

 

「……うぅ……母ちゃん……」

 

 突然の声に、シグルは危うく落としそうになった。夢の世界で亡き母を追っているのか、呼びかけ、追いすがるような声は、切なさを帯びていた。

 ――思えば、俺も――と、シグルは幼い時分、両親の夢を毎晩のように見て泣いたのを思い出した。今でもときどき両親との日々を夢に見るが、束の間の幸福はいつも目覚めによって非情に断たれる。現実に引き戻されて打ちのめされるシグルは、悲しみに押し潰されてしまいそうになる自分を復讐という目的で支えてきたのだった。

 

「……ふぅ……」

 

 急角度の斜面にかけた前足を折り、身をかがめて横穴に頭を入れ、角を天井にこすりながら中に横たえたシグルは、一息つくとあらためて子オオカミを見た。閉じられた目から今にも涙があふれそうな顔は、ただのあわれな子どもにしか見えなかった。

 

(……こいつが、オオカミでなければ……)

 

 また不意に頭をよぎるおかしな考えにうろたえ、シグルは横穴から慌てて離れた。雪は一向に衰える気配も無く、立ち尽くすシグルをのみ込まんと吹き荒れる。

 

 ――憎い獣に情けをかける――

 ――幼い子どもとはいえ、天敵のオオカミに――

 

 自分の行いに混乱し、めまいでぐらぐら頭が揺れる。シグルは逃げ出すようにきびすを返し、右後ろ足の痛みをこらえて麓の林に急いだ。吹雪とともに山を下りる彼は、雪が子オオカミと横穴もろとも自分の行いすべてを埋めてくれるように念じていた。




 その日一日、シグルは自分がどう動き、他のシカと何を話したのか、はっきりと覚えていなかった。子オオカミとのことが頭の中で渦巻いているうちに時は吹雪に吹き飛ばされ、そして、まんじりともせずに再び未明を迎えたシグルの足は、山頂から吹き下ろす風雪に逆らって横穴へ向かっていた。

 

 ――なぜ、またあそこに行く?――

 ――死んでいるのを確かめるため?――

 ――生きていたら、とどめを刺そうと?――

 ――放っておいても死ぬのに、いったいなぜ?――

 

 自問するほどかき乱されるシグルは、荒ぶる混沌の彼方に答えを求めてひたすら雪山をのぼった。

 斜面の横穴は依然としてあったが、出入り口は雪で半分くらい塞がれていた。それをしばらく見つめていたシグルは、狭まった穴に意を決して近付き、薄闇をのぞき込んだ。

 子オオカミは、中で土の上に横たわっていた。息絶えているのかとも思ったが、耳を澄ますと弱々しい呼吸が微かに聞こえる。

 

(……まだ生きている……)

 

 安堵のような奇妙な思いがよぎり、そんな自分にまた戸惑ったシグルは顔に溝を掘った。

 

(……しかし、長くはないんだ……)

 

 シグルは薄暗い辺りを見回した。峻厳しゅんげんとそそり立つ針葉樹と葉を残らず散らした低木が白い重みを背負って囲み、積もった雪の下からは凍てついた土と草のにおいがする。

 

(……シカだったら……)

 

 シカなら雪を掘ってその下の草をはむこともできれば、木の皮をかじって飢えをしのぐこともできる。だが、オオカミにはそれができない。他の獣を狩って、その血肉を食わなければ生きていけないのだ。

 

(……狂っている……!)

 

 吹雪の中、シグルは天を仰いであえいだ。

 

 ――なぜシカがいて、オオカミがいる?――

 ――どうして、オオカミは肉を食べなければ生きていけない? そうでなかったら、母さんも父さんも殺されることはなかったのに……!――

 

 だが、いくらもだえても、頭上を覆い尽くす暗澹あんたんたる雲は、容赦なく吐き出す風雪で噴き上がる息をちりぢりにするばかりだった。

 

「……あ……」

 

 耳に吹き込む声に目を転じると、狭まった出入り口に幼い顔が見えた。子オオカミは前足で力無く雪をかき、崩して広げると、巣穴の前に立つ雄シカに憎しみのしわを引きつらせ、そして以前かみ付いた右後ろ足を食い入るように凝視した。

 

「――お前は―――――!」

 

 かたきへの憎悪と飢えでぎらつく幼い瞳に激高し、シグルは吠え立てた。

 

「――お前は、なぜ雪を掘って草を食べない? どうして木の皮を食べないんだ? お前たちのせいで多くのシカが、俺の両親が殺されて……! かたき? 親を返せ? なら、お前たちに食われた俺の母親と父親を返せッ! 優しかった母さんと父さんを返せッ! 返してくれよッッ!」

 

 声を上ずらせながら怒鳴る雄シカの剣幕に子オオカミはうろたえ、口を曲げて未熟な牙をのぞかせた。

 

「……何言ってんだ! 母ちゃんたちが言ってたぞ。シカはオオカミのエサなんだ、食べられるためにいるんだって――」

「違うッ! 俺たちは餌なんかじゃないッ! お前らに食べられるためにいるんじゃないッッ!」

 

 シカが、両親が、自分が、食べられるために存在するはずがない!――

 白い半狂乱の只中で叫ぶ雄シカを、子オオカミは困惑気味ににらんでいたが、吹き付ける雪を嫌って奥にふらふら引っ込んだ。その暗い穴に向かってシグルは絶叫した。

 

「俺たちは餌じゃないッ! 餌なんかじゃないィッッ!――――」

 

 

 

 冷厳な風雪に押され、シグルは逃げるように夜明け前の山を駆け下りた。ますますひどくなる吹雪のうなりが響く頭では、これまでの年月とこの数日のことが熾烈に入り乱れ、ときにぶつかり合って轟音を上げていた。

 

 ――オオカミは、肉を食わなければ生きていけない。だから、奴らは山の獣を襲い、時折麓近くに現れてシカを狙う……――

 

 それは、オオカミが生きるための行為――なら、シカは子オオカミが言っていたように餌として存在しているのだろうか? 自分たちには、本来その程度の価値しかないのだろうか?

 

(――そんなはずはない! そんなはずはッ!)

 

 ザクッ、ザクッとひづめが乱暴に雪を蹴る。迷路のごとき針葉樹林を進むシグルは、吹雪でよく利かない目を凝らしてひたすら麓に急ぎながら、果たして本当にそこへ向かっているのか、向かおうとしているのか、分からなくなった。

 

(……オオカミは恐ろしい獣。母さんと父さんを殺したかたき……連中は敵なんだ! 殺さなければならないんだ! なのに、どうして俺はあんなチビのことを――)

 

 そのとき、背後から厳しく呼び止める声が刺さり、シグルの歩みを急停止させる。

 

「……オージュ……!」

 

 呼び止めたのは、汚い薄笑いを浮かべたオージュとフルーだった。黒い幹の陰から現れた2頭は、自分たちより体格がいいシグルを斜面の上からにやにや見下ろした。

 

「あのガキは何だ、シグル?」

「はっ?」

 

 動揺するシグルにオージュは口の両端をつり上げ、濡れた舌をのぞかせた。

 

「仲間たちからお前の様子が変だと聞いてな……ずっと何事か考え込んで、周りが声をかけてもろくに返事もしない。だから密かに見張って、まだ暗いうちにこっそり山にのぼるお前の跡をこいつとつけたんだ」

「そしたら、びっくりしたぜぇ~」

 

 オージュの陰に半分隠れるフルーが、意地悪くにやつく。

 

「――何だか知らないけど、オオカミの子どもをほったらかしにしてるんだからな~ これは、どういうことなんだぁ~?」

(……尾行に気付かないとは……!)

 

 頭がしっちゃかめっちゃかだったせいで、周囲への注意がおろそかになってしまった――シグルは己のうかつさに歯がみした。

 

「……あれは……あの子オオカミは、俺が見つけた獲物……どうするかは俺が決める……!」

 

 もがくような抵抗を、オージュはふんと鼻で笑った。

 

「そんな身勝手が許されると思っているのか? なぜ、さっさと殺さないんだ?」

「……それは……オオカミとはいえ、弱った子どもを殺すのは性に合わないからだ。放っておいたって、どのみち衰弱して死ぬ。だから……」

「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは――」

 

 うつむきがちなシグルの弁解を、オージュのせせら笑いが吹き飛ばす。

 

「――弱ったオオカミのガキを殺したくないだって? ガキだろうと、オオカミはオオカミだろう? 奴らに仲間を何頭も食われたことを忘れたのか? お前も俺と同じように親を食われたんじゃなかったのか? ええッ?」

 

 えぐるオージュに面と向かえず、シグルはひづめを食らい込んだ雪を苦しげににらんだ。

 

「――俺には、お前がバカげた感傷に惑わされているとしか思えないな。オオカミのガキに情けをかけるなんて……! 盗み聞いたところだと、どうやらあれはお前が殺したオオカミたちのガキで、お前はかたきと言われているらしいが、まさか、それで罪悪感にさいなまれているのか?」

「そ、そんなことは!……」

「じゃあ、殺せばいいじゃんかぁ~」

 

 フルーが声をはずませて非難する。

 

「――性に合わないとか、どうせ死ぬとか言ってないで殺すべきなんだよぉ。今まで殺されたシカたちの分まで徹底的に仕返ししてからさぁ! そうじゃないかぁ~? そう思わないのかよ~?」

 

 山頂から吹き下りる雪を正面からまともに受け、混乱の深みにはまって沈黙するシグル。吹雪を背にしたオージュとフルーはそれを面白そうに眺め、辛辣に突き付けた。

 

「……何がオオカミ殺しの英雄だ! 詳しい話は長老たちの前でしてもらう! いいなッ!」

 

 オージュの勝ち誇った声が、吹雪に乗って極寒の山を飛んだ。