REBEL∝VECTOR

小説/イラスト/詩/俳句 ©NaG∀T∴

(3)

 ――あのとき、巣穴からふらふら出てきたのは、見るからに弱って足取りもおぼつかない子オオカミだった。まだ生後数十日くらい――野ウサギより一回り大きく、薄灰色の柔らかな毛並みをした幼子は、どうやら病んだ熱に浮かされているらしくぼうっとしていたが、焦点が定まっていなかった目は横穴の縁から吹雪越しに影をとらえると、生きているシカを初めて見たように見開かれていった。

 

(……親が仕留めてきた『餌』しか、見たことがないか……!)

 

 調子を崩され、同時に激しくわき上がる怒りで毛を逆立てたシグルは、状況が理解できずに立ち尽くしている子オオカミをにらみつけた。

 

(……こいつの仲間にたくさんのシカたちが……俺の両親が食われたんだ……!)

 

 切れ上がった両目、弓につがえられた矢のように引き絞られていく巨躯――その凄絶さに射すくめられた子オオカミは不意に瞬き、雄シカの頭の角に鼻を向けてひくひくと動かした。

 

「……母ちゃん? 父ちゃん……?」

 

 木々にぶつかってはねのけられた風雪が、奇しくも運んだ血臭――何度も鼻をひくつかせ、子オオカミはなぜこの大きな雄シカの角から血臭混じりに両親の体臭がするのか、小さな頭で一生懸命考えている様子だった。そして、何か恐ろしいことが起きているらしいと悟って幼い牙をむき、四肢を健気に踏ん張らせて、おびえと敵意が入り混じった声を上ずらせた。

 

「母ちゃんと父ちゃんは……どこだ!」

 

 その問いにシグルは奇妙なためらいを覚えて口ごもったが、結んだ口の端を引きつらせてから冷淡に、

 

「……この角にこびりついている臭いは、俺が殺した2匹のものだ……」

 と告げ、角を突き出した。

 

「………………………………………………………………………………………………………………―――――           

 

 子オオカミは硬直し、表情も呼吸も、心臓の鼓動さえも凍りついたように見えた。やがて、耳にした言葉が小さな頭でゆっくりと溶け、血に混じって全身を巡るにつれて、あどけなさが無残に崩れてゆがんだ。

 

「  ――こ……  こ……    」

 

 むき出しの牙が、興奮の余りガチガチとかみ鳴らされ――激した叫びを発し、幼獣は横穴の縁から雄シカめがけて飛びかかった。

 

「――ッ!」

 

 雪しぶきを上げて横にかわしざま、シグルは角で薄灰色の影を殴りつけ、悲鳴を上げる子オオカミを雪上に落とした。

 

(くっ……!)

 

 シグルは密かに舌打ちした。成熟したオオカミはまさしく灰色の悪鬼、一瞬でも気を抜けば、肉を食い千切られ、鮮血を撒き散らして八つ裂きにされかねない恐ろしい相手だった。だから、シグルもしゃにむに戦えたのだ。しかし、倒れた体に吹雪かれる子オオカミは、それとは比較できないほどたわい無い。その余裕が雑念を――天敵とはいえ幼子、しかも病んで弱っているものを殺すのはむごくないかという考えを浮かばせ、とっさに手加減させてしまっていた。

 

(……何をやっている! こいつはオオカミなんだぞ……!)

 

 雪をひづめで踏みつけ、シグルは迷いを振り払って間合いを詰めた。その殺気、迫る巨大な影に子オオカミは雪で汚れた顔を上げ、うなって荒れる風雪によろめきながら立ち上がると、敵を潤んだ瞳でにらみつけた。

 

「……魔」

「……何?」

「――悪魔ッ! 地獄に落ちろッッ!」

 

 烈風に乗って飛んで来た叫びに、シグルは思わず耳を疑った。驚きはやがて怒りに変わって顔をひび割れさせ、暴発した巨体が――

 

「――ふッざけるなァッッ!」

 

 飛びかかり、踏み殺そうと繰り出した右前足のひづめが、標的を仕留め損なって雪に深く埋まる。

 

「――貴様は、貴様たちはッ!」

 

 息を荒げ、シグルは灰色の幼獣を追って雪を飛び散らせた。薄暗い樹間をふらつきながら必死に走り、憎悪のまなざしで射続ける子オオカミを――

 

「――貴様たちは今までどれだけ殺した? 何頭のシカを食って、血を舐めたんだッ?」

 

 激しく糾弾したシグルは子オオカミに迫り、吹雪にあおられながら角を突き出した。とらえたと思った攻撃は幹を突き、大きく揺らいだ針葉樹から雪の滝が背にドオッと落ちる。

 

「――あぐッ!」

 

 右後ろ足に鋭い痛みが走る。隙を突いた子オオカミが、力一杯かみ付いていた。

 

「――このォッ!」

 

 力任せに右後ろ足を振ると牙は外れ、飛ばされた体が幹にぶつかって悲鳴が砕ける。体を雪にまみれさせ、呼吸を乱したたまま、シグルは木の根元に倒れた子オオカミをにらんだ。

 

(……角で突き殺すか、それとも足で踏み殺すか……!)

 

 迷っているうち、子オオカミはうめきながら白っぽくなった小さな体を起こし、かたきをにらんで火を噴くようにわめいた。

 

「……母ちゃんと父ちゃんを……母ちゃんと父ちゃんを返せッッ! 母ちゃんと父ちゃんを返せッ! 返せ! 返せ! 返せ! 返せェッッ――!」

 

 執拗な叫びに涙が混じる。顔をぐしゃぐしゃにして訴える子を前に、シグルは脳天を叩き割られたような衝撃に襲われた。

 

(……母親と父親を返せ……だと……!)

 

 幼い自分が、子オオカミの叫びに重なってよみがえる。両親を食い殺したオオカミへの復讐を誓って虚空に吠えた、あのときの自分――

 

「……せ……母……んと……父ちゃ……ん……!」

 

 声を枯らし、両目から涙をぼろぼろ落とす子オオカミの口元は、かけがえのない肉親を失った絶望に震え、吹雪に飛ばされそうな幼い体は悲しみで今にも張り裂けそうだった。それを支えているのは、かたきであるシグルへの憎しみに他ならない。

 

(……オオカミは、今まで多くのシカを襲って殺してきた……俺の両親も奴らに食われたんだぞ……! だから、俺にはすべてのオオカミがかたきだ! こいつの両親が死んだのは、当然の報いというものだろうが……!)

 

 だが、シグルは踏み出してとどめを刺せず、吹雪を浴びながら立ち尽くしていた。思考が乱れて渦を巻き、鈍い頭痛を伴うめまいが視界をひずませる。言いようのない吐き気を覚えてよろめいたシグルは子オオカミから目をそらし、足をもつれさせながら背を向けた。

 

「ま、待てッ!」

(……親を失い、しかも弱った子オオカミが、自力で獲物をとらえて生き延びるなんてこと、できやしない……)

 

 呼び止めるのを無視し、シグルは麓の方へ歩き出した。雪を踏んで山を下りるにつれて子オオカミとの間を吹雪が断絶し、蝕み始めた夜が隔てていく。その向こうから親を求めて繰り返し響く、か細く悲しげな遠吠え――それもやがて無慈悲な風雪にかき消されてしまった――




(――殺せたはず……なのに……!)

 

 耳の奥でこだまする叫びに、シグルは顔をきつくしかめた。

 

 ――母ちゃんと父ちゃんを返せッッ!――

 

 あの言葉が無ければ、一思いに殺せていたかもしれない。それが――欝々うつうつと雪を踏みながら、シグルは己の不甲斐なさを唾棄した。あの幼さと衰弱ぶりから見て、親を失ったあの子オオカミが生き延びることは無理。近くに他のオオカミはいないようだし、山を隔てた仲間を呼び寄せるだけの遠吠えをこの吹雪の中から上げる力も無いだろう。殺そうと思えば、またあそこに行けばいいのだし、放っておいても飢えと寒さでいずれ死ぬ。それをわざわざ殺す必要は、確かに無かったのかもしれない。

 

(――だが、あいつはオオカミなんだぞ! それを……!)

 

 悩むうちいつしか林が途切れ、シグルは開けた地に立っていた。そこには周りを山々に囲まれた雪原が黒く霞んで広がっていて、横殴りの雪が遮られることなくぶつかってくる。ここはかつてシカたちの憩いの場で、黄金こがね色の陽が豊かに降り注ぎ、きらめく緑が柔らかな微風に撫でられる草原だった。幼い日、シグルは父と一緒にこの草原を跳ね回り、母親の懐に抱かれて温かい舌で優しくなめられていた。だが、それも今は風雪にすっかり征服され、悪夢とともに白く覆われていた。

 

(………―――――――――                        )

 

 あの日、網膜に焼き付けられた惨劇――オオカミたちに襲われながら幼い自分を必死に逃がそうとした父母ちちはは――泣き叫びながら振り返り、倒れた両親に獣たちが群がるおぞましい惨劇からひたすら逃げた、あのとき――それ以来、シグルは無力で臆病な自分を責めさいなみ、両親のかたきを討って恥をそそぐため、稲妻のように生え始めた角を磨いて群れの雄シカと、独りのときは巨木の幹を相手にしてひたすら鍛錬に明け暮れた。その思いが実るように並外れて大きな体躯に成長し、角が猛々しくでき上がったときには、シグルと一対一で渡り合える雄はいなくなっていた。

 

「……誰だ」

 

 気配を感じて振り返ると、背後の針葉樹林の間に栗色の毛並みをした雌シカの姿が、ぽうっと浮かんでいた。

 

「マルテ……」

 

 すぐに顔を雪原に戻して黙るシグルの隣に並ぶと、マルテはぶるっと体を震わせて吹き付ける雪を拒み、そしてまだらに白く彩られ、毛先が針のように凍りかけた巨体を憂いげに見つめると、鼻先でそっと雪を払ってやった。

 

「……右後ろ足……」

「ん……?」

 

 マルテはシグルの傷に目をやり、痛そうな顔をした。

 

「大丈夫なの……?」

「……どうってことない……」

 

 煩わしげな声にマルテは端正な顔を曇らせ、ひづめが沈んだ雪に目を切なげに落としたが、再び頭を上げて横顔を見つめた。自分を気遣うその瞳がうっとうしかったものの、シグルは彼女を追い払うことができず、そのまま吹雪を見つめ続けた。

 

「……皆、あなたのことをうわさしているわ。恐ろしいオオカミを2匹も殺した英雄だって。雄たちは自分たちも続こうと、戦いの訓練に夢中になっているわよ」

 

 風が耳障りなうなりを上げ、雪を2頭の顔に叩き付ける。雪が目に入ったシグルはまばたきをし、結んだ口を苦々しげに曲げてから突き放すように言った。

 

「……いいじゃないか。オオカミは俺たちの天敵。やらなければ、いつか襲われて食われるんだ。その敵から逃げるだけじゃなく、戦って殺すことができるって分かったから、今までいたずらにおびえていたみんなも変わり始めたんだろう」

「……でも……何だか、私……怖いの……」

 

 おびえた声で言い、うつむくマルテをシグルは横目で見た。雪に吹かれて微かに震えるマルテにふと憐憫れんびんの情がわき、口調が少し和らぐ。

 

「オオカミは凶暴だからな。恐ろしいと思う気持ちは分かるよ……」

「……それもあるけれど、私は……」

 

 言葉が途切れ、マルテの瞳がうかがうような色を見せる。その視線を不快に感じ、シグルは顔を硬くしてそむけた。衰える気配のない雪がしばらく2頭をなぶり、息苦しい時が流れる。

 

「……私、みんなが変わっていくのが怖いの……上手く言えないけれど……」

 

 どこかすがるように漏れ、吹き散らされた白い息にシグルはまためまいを覚え、反発して声を荒げた。

 

「……そんなふうに感じるのは、お前が臆病だからだろう! オオカミは殺す! 俺の両親のかたきは、シカの天敵はすべて殺す! それが正しいんだ! いくら恐ろしくてもな!」

「だけど……」

 

 言いかけたマルテからシグルは離れ、雪原に独り踏み込んだ。シグルの背にマルテはうなだれ、黙って元来た林の奥に戻って行った。雪原の中央に独り立つシグルの耳には、吹雪の恐ろしいうなりだけが響き、脳裏に残酷な記憶がよみがえる。

 両親の絶叫――

 血に濡れた獣たちの口元――

 オオカミへの止めどない憎悪――――

 噴き出す激情にシグルは頭をのけぞらせ、暗黒の天を仰いで息を炎のように立ちのぼらせた。

 

「……明日、必ずあの子オオカミを殺す……!」