REBEL∝VECTOR

小説/イラスト/詩/俳句 ©NaG∀T∴

 地上を忘れようと努めてしばらく経ったある日、いつものように鬼たちと働いていた私のところにメミという名の鬼女が転がり込んで来ました。ぜぇぜぇ息を切らしながら何事か伝えようとする彼女――まだ鬼の言葉を大まかにしか理解できなかった私はサイキを呼んでくれるよう周りに頼み、間もなくやって来た彼を始めとする主だった鬼たちが私に背中をさすられていくらか落ち着いたメミを囲むと、彼女は興奮してまくし立てました。狼狽した言葉が跳ね回るにつれて鬼たちの顔が不穏な色に染まっていきましたので、不安が高じた私は立ち上がってサイキにどうしたのかと尋ねました。彼はためらっていましたが、問いただすとようやく、見慣れない生者が剣を携えて入り込んで来たらしいのですと答えました。

 

 ――生きている者が、死の国に入り込んで来た――?

 

 にわかには理解できない私はサイキの丸太のような右腕をつかんで、いったい何者なのか、どういうことなのかと揺さぶりました。彼はメミから聞き取ったその侵入者の容貌や身なりを重い口ぶりで伝えましたが、それを聞いていた私は熱病に侵されたかのように体がぶるぶる震えてくるのを禁じ得ませんでした。白の衣をまとって腰に剣を差し、左右の耳の上で黒髪を束ねた頭に櫛を挿し、黒い蔓草つるくさで作ったかんむりを頂く美丈夫びじょうふ――それは、死に別れた夫そのものだったからです――

 

 夫が来た――愛する夫が――!

 

 どうやって来たのかは分かりませんでしたが、夫と再会できると狂喜した私は鬼たちに片端から抱き付き、驚く皆の間を笑いながらくるくる踊りました。そして、ひどいなりで迎えるわけにはいかない、せめて汗と土の汚れを落とそうと川へ駆け出しました。途中足がもつれて何度か転んだ末にたどり着いた私がまず髪を洗おうとひざまずいて前かがみになり、薄闇に目を凝らして川面をのぞいたときです――

 

 ――ぎゃあああああああああっっっっ―――――――――――――――――――!

 

 絶叫した私は河原に尻もちをつき、がたがた震えました。川面に突然現れた化け物に仰天して腰を抜かしたのです。それは鬼たちを見慣れた私でさえ戦慄する顔――慌てふためき、這って川を後にしかけたところで私は凍りつきました。ある恐ろしい考えが頭をかすめて……その場にすくんでいると、サイキが私を追って来ました。そばにしゃがんだ彼の、悲痛な色をした左目……その瞳に私はおののきながら尋ねました。私の姿は、いったいどうなっているのですか、と……

 

 彼は痛みをこらえるようにまぶたを閉じ、しばらく瞑目めいもくしたのち目を開けると、そっと川を指差して自分で確かめるように促したのです。私は半ば放心状態でふらふら戻り、河原に両膝をついて震えながら川面をのぞきました。

 

 そこに映ったのは、ゆがんだ醜悪――

 

 落ちくぼんだ目を蒼く光らせ、腐って崩れた肉から蛆をうじゃうじゃわかせる化け物の顔――

 

 なぜ……なぜ私は今まで気付かなかった――いえ、気付こうとしなかったのでしょう……黄泉国の闇で目が曇り、臭気に鼻を鈍らせ、冷たくなった体が感覚を薄れさせていたとはいえ、心のどこかで私は、神である自分は鬼たちのような姿にはならない、なるはずがない、なりたくないと思って無意識に顔を背けていたのです――

 

 私は、醜い化け物に相応しい絶叫をほとばしらせました。喉が引き裂けんばかりに叫び、角ばった石が覆う河原に突っ伏して号泣しました。そして、自分の傲慢さを詫びながらサイキに縋り付き、助けを求めました。夫に会いたい、だがこの姿は見せられない、どうしたらいいのだろうと……すると、彼は隻眼を切なげに細め、この暗闇に目が慣れていない生者では満足に見ることはできないだろうと言いました。その言葉で私はいくらか落ち着き、ふらつく体を後ろから支えられて元来た道を戻りました。

 

 耕地に戻ると、侵入者の話題でざわめいていた鬼たちが群がって来ました。不安に囲まれた私は皆を安心させなければと地面を踏み締め、侵入者は自分の夫だから心配いらないと伝え、少し会って話をしてくると告げると、サイキたちを残して独り歩き出しました。

 

 おびえた足取りで荒れ地をしばらく行くと、闇の彼方から私の名を呼ぶ声が耳を打ちました。それは紛れもなく夫の声――歓喜と恐怖で心が乱れ、張り裂けんばかりになった私はうわごとのようなかすれ声で夫を呼びました。それはやがて叫びになり、いつの間にか駆け出していた私に闇の向こうでどこだ、どこにいるのだと問う声が近付き――そして、あぁ、私たちはとうとう巡り会ったのです。私の潤んだ目は、十数歩離れたところに立つ愛しい夫の影をぼんやりとらえました。ですが、夫の方はサイキが言ったように闇のせいで私がほとんど見えないようでした。蛆が巣食う腐乱した体を気付かれてはならない――我を忘れて夫の胸に飛び込みそうになるのを必死にこらえ、お前の美しい顔をよく見せてくれ、恍惚とさせる体を抱かせてくれという求めを、今は汚れていて臭いからと拒み、それでも構わないと粘る夫に、私に恥をかかせないでと哀願しました。

 

 血がのぼった夫の頭を冷やすと、私たちは少し距離を置いて腰を下ろし、あふれ出す思いを、積もり積もった話を次から次へと、時を忘れて語り合いました。 聞けば夫は天上の神々の断片的な言い伝えを頼りに地上を回って、ついに黄泉国へ通じる洞窟を探し当てたのだそうです。その一途さに私はどれだけ感動し、涙したでしょう。

 

 ですが……私が死ぬきっかけになった火の赤子を殺したと聞いたときは、愕然がくぜんとせずにはいられませんでした。いくら愛する妻を奪われたからとはいえ、私が産んだ赤子の首を怒りに任せて斬り落とすとは……夫にそのような顔があったのは心底ぞっとしましたが、それも深い愛ゆえであると思えば、どうにか受け入れることもできなくはなかったのです……

 

 闇を間に語り合ううち、夫を求める気持ちは抑え切れなくなっていきました。二度と離れ離れになりたくない――夫も思いは同じで、一緒に地上へ帰ろうと私に迫りました。私はためらいました。この醜い姿を白日はくじつもとに、夫の目にさらすことを――でも、これほど愛し合っているのだから、きっと受け入れてくれると信じました。いえ、信じたいと思ったのです。

 

 私はこの国の王に地上に戻る許しを得に行く、そのときに今まで与えてもらった食べ物や住まいの礼を言うつもりだと夫に言いました。黄泉国をべているのは私なのですが、このまま鬼たちと別れることはできませんでしたし、サイキに相談もしてみたかったのです。

 

 私は皆を驚かせたくないからと夫を説得してその場に残し、足早に戻りました。帰って来た安堵と何があったのか問う声にもみくちゃにされた私は声を張り上げて皆を静め、サイキの腕をつかんで連れ出すと河原まで引っ張って行きました。

しかし、いざ向き合うと、彼等との思い出が止めどなく浮かんで声が出ませんでした。私は唇をかんであふれそうな感情をこらえ、意を決して隻眼を見上げると、夫と一緒に地上に戻りたいと切り出しました。

 

 予想していたらしい彼は瞳を陰らせ、だめです、と辛そうに返しました。その答えに打たれた一瞬の後、血相を変えた私はなぜだめなのかと声を荒げました。サイキは興奮を受け止め、落ち着き払って説明しました。あなたはすでに死んだ身であり、この黄泉国の一部となっているのです。死者が光あふれる地上に戻って生者と暮らすことはできません……と――

 

 私は食ってかかりました。あまつさえ彼の厚い肉をこぶしで何度も何度も、自分を阻む壁であるかのように叩き、おそらく知っていて隠していた黄泉国と地上をつなぐ洞窟のことを挙げてなじりました。そんな駄々だだっ子のような私を、彼は胸をえぐられるような悲しみをたたえて見つめていました。

 

 そのときです。

 

 私たちをぼわっと明かりが浮き彫りにし、おぞましい物を無情に払いのける、そんな悲鳴がその光――炎の方で上がりました。それは夫でした。火のついた木の棒――それは夫が挿していた櫛の歯を一本折って神の力で松明に変え、火を灯したもの――で私たちを照らし、姿をあらわにさせていました。私を待ち切れなくなったか、心配になって捜しに来たのでしょう。いつも目にしている暗い火のそれとは比べものにならない強烈な光を浴びた私は火の池に投げ込まれたような錯覚に襲われ、腐った体内のあちこちで何かが悶えました。まばゆく、熱く、あまりに苦しい……そのとき、私はサイキが言った、光あふれる地上では暮らせないということを図らずも体で理解させられたのです。苦痛にあえぎ、両手で光をさえぎりながら私は恐怖する夫に訴えました。確かに死んでこのような姿になりましたが、あなたに対する愛情は昔となんら変わってはいません。だから、このままここに留まって欲しい、と――

 

 そんな私をにらみ、わずかに逡巡しゅんじゅんを見せたものの、夫はこう言い放ちました。

 

 ――この化け物め!

 

 この化け物め……この化け物め――そう吐き捨てたのです。

 

 私は光に焼かれながら夫に近寄り、取り縋ろうとしました。ですが、夫は腰から剣を抜いて振りかざしたのです!