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REBEL∝VECTOR

小説/イラスト/詩/俳句 ©永都由崇

 私はその穀物らしきものに手をつけませんでした。得体が知れないうえ、鬼女が触れたものなどけがらわしいと思っていましたし、何よりも地上を、あの光に満ちていた世界を僅かでも思い出させるにおいなど嗅ぎたくありませんでした……

 

 しかし、鬼女たちは私の気持ちなどお構い無しでした。私が捨て置くと穀物は数多あまたはえにたかられ、やがてうじ巣窟そうくつと化してしまいます。すると、次にやって来た鬼女はその蛆の塊を下げ、新しいものを置くのです。それにいら立ち、やめて下さいと怒鳴ったこともありました。でも鬼女たちは、崩れた肉襞にくひだに埋もれがちな目を見開いて驚くものの、やはり置き続けるのです。

 

 私は、だんだん鬼女たちが気の毒に思えてきました。無下むげにされても置き続けることが情けであるならば、それが押し付けでも心苦しく感じずにはいられなくなったのです。直視に堪えなかった容貌も暗闇になじんできた目で何度も見ているうちに慣れ、それぞれの顔の崩れやゆがみ、背恰好で区別がつくようになるにつれ、私は彼女たちに親しみさえ抱くようになりました。思えば、それは孤独に耐えかねた心の求めだったのです。

 

 何十回目かのとき、私は意を決し、置かれた物をつまんで一口食べてみました。それはやはり地上の穀物に似た味がして飢え切った胃袋に溶けていき、二口、三口……と貪るうちすべて無くなってしまいました。満ち足りて空になった広葉を手に放心していると、囲んでいた鬼女たちが互いに顔を見合わせてぎゃあぎゃあ騒ぎ出しました。何を言っているのか分かりませんでしたが、様子からするとどうやら喜んでいるようでした。

 

 次に鬼女たちが穀物を持って来たときは、直接手から受け取って、ありがとう、と礼も言いました。節くれ立って黒ずんだ手が、妙にいとおしく感じられたものです。

 

 食べ終わって一息ついていると、取り巻く鬼女たちの後ろから足音が聞こえ、大きな影が四つ、こちらへ近付いて来ました。それは全裸の男の鬼たちで、立った私の頭がみぞおち辺りに来る背丈、岩石を固めたような筋骨隆々の体躯をしていました。初めて見る男の鬼に多少驚きはしましたが、鬼女たちに慣れた私は、いかつくゆがんで崩れた顔を見ても嫌悪感を抱きませんでした。

 

 何事かと座ったまま見上げていた私の前にひざまずいた彼等――その中の一人が私の興味を引きました。細面ほそおもての顔は特に右半分が大きく崩れ、目玉も失われているようでしたが、理知的そうな左目と落ち着いた雰囲気が印象的な若者でした。しげしげと見ていると、細面の鬼は驚いたことにたどたどしくではありますが、私に分かる言葉を発したのです。

 

 あなたは……神……ですか?

 

 その問いは、忘れかけていたことをはっきりと思い出させました。そう、私は大地を固めてそこに降り立ち、幾多の島々や生命を産み出した神です――私は細面の鬼を見つめて噛み締めるように答え、否応無くよみがえる夫と愛し合った日々に泣いていました。そんな私の前で細面の鬼が周りに言葉ともうなりともつかない声を発すると、鬼女たちがぎゃあぎゃあとわめき出し、辺りは騒然となりました。四人の鬼は鬼女たちを叱って静めると、額を集めて何事か相談を始めました。しばらくすると鬼たちは離れ、そして細面の鬼がまたひざまずき、涙で頬を汚した私を気遣いながらゆっくりと語りかけたのです――





 汗がにじんだ肌にまとわりつく蝿を手で追い払うと、私は先を尖らせた長い木の棒を再び握ってざっくざっくと一心不乱に土を耕し、転がっている石を取り除きました。この暗闇の国に流れ着き、今の暮らしを始めてからどのくらい経ったでしょうか。

 

 あのとき、細面の鬼の言葉には正直驚かされました。彼は、死んでこの世界に来たのだと私にあらためて自覚させたうえで、黄泉国を治めて欲しいと言ったのです。彼の話だと、ここでは貧しい土地やわずかな食物を巡ってときどき争いが起こっていて、それを止めようと自分たちの中から王を選ぼうともしたのだけれど、なかなかうまくいかず困っている。しかし、神であれば皆も納得すると言うのです。

 

 私は、自分には無理ですと断りました。でも彼は、神には黄泉国を統べて導いていく力があると言い、それを頼むのは我々に心を開いて供物くもつを口にしてくれたからなのだと、心を通わせることができると本能的に感じればこそ、鬼女たちもあれほど繰り返し情けをかけたのだと説明しました。

 

 私は悩みました。長く――おそらくは数日闇の中で考え抜いた末、私は願いを聞き入れることにしました。どんなに泣きわめいたところで二度と再び地上に戻り、夫と暮らすことはできないでしょう。それならば、良くしてくれた鬼たちのために働いてこの地に骨を埋めようと決めたのです。

 

 当初は闇ばかりと思っていた黄泉国も歩き回って目を凝らすと、石だらけの荒れ地に細々と小川が流れ、所々から生える樹木が枝を伸ばして葉を茂らせ、中には丸々とした桃などの果実を実らせているものもあると分かりました。四方には無数の洞窟がある岩山が幾つもそびえており、数千にのぼる鬼たちはそのほらの中で眠り、目覚めると山を下りて耕地で穀物を育て、実ればそれを収穫し、簡素な石のかまどに木の枝をくべて石打ちで暗い火をつけ、器状に削った石に川の水と脱穀した穀物を入れて煮ていました。それに取った木の実や川原の石の下を這いずっていた虫を添える……そうした生活を彼等は送っていたのです。

 

 最初、細面の鬼たちは私に岩山のいただき近くの洞穴を提供し、そこから見守っていてくれればいいと言いました。けれども私は、彼等の働く姿を見下ろしているうちに自分だけそうしていることに我慢できなくなり、下りて行って一緒に働かせて欲しいと細面の鬼に頼みました。彼がびっくりした顔で左目を瞬き、周りに私の意向を伝えると、鬼たちはとんでもないというふうに頭や手を横に振りましたが、私は見下ろしているだけというのは申し訳なくて耐えられないと粘り、ついには彼等の手から土を耕す木の棒を奪って荒れ地の開墾を始めました。うろたえていた鬼たちもやがて諦め、私をそのままにしてくれました。

 

 黄泉国の土地はせており、たくさん種をまいても芽を出し、実を結ぶのはごく一部。それを考えれば、かつて私が与えられた食べ物を粗末にしたのは、何と愚かなことだったのでしょう。

 

 私は何としてもこの土地を豊かにしたいと思い、持てる力すべてを込めて木の棒を振るい、全身汗にまみれ、ころもを汚して悪臭を漂わせながら祈りを込めて種をまきました。すると、少しずつではありますが土に活力が宿って芽吹いた植物がすこやかに育ち、豊かに実るようになっていきました。それを見た鬼たちの表情もだんだん明るくなり、やがて岩山から見渡せる一帯が豊穣ほうじょうになったときには、もう争いは過去の出来事になっていました。

 

 たいそう喜んだ鬼たちは、あるとき私を岩山の麓――少し窪地になっていて鬼たちが集まれるような場所があるのですが――に招き、場の中心に据えて囲むと手を上げ、足を上げて陽気に踊り始めました。輪になった数千もの鬼たち……けっして洗練されたものではありませんでしたが、彼、彼女たちは黄泉国の果てまで届くような声で歌いながら踊ってくれました。歌の内容は分からないものの、その心は十二分に伝わり、いつの間にかぼろぼろ落涙らくるいしている私のそばに細面の鬼がやって来て、皆の感謝の気持ちをかしこまって伝えてくれました。私は照れ臭さと泣き顔ばかり見せている恥ずかしさから顔を拭い、喜ぶ鬼たちを見て、あぁ、良かった、と晴れやかな気持ちに満たされました。私はこのとき鬼たちと心から打ち解け、家族になれたと思ったのです。

 

 この頃から私は、鬼たちに名前を付けるようになりました。まるで名付け親にでもなったつもりで耕作の合間に頭をひねって一人ひとり考えていったのです。瞳が薄い朱であれば朱目(シュメ)、明るく活発な性格であれば陽日(ヨウヒ)、丸々とした体格であれば玉(ギョク)といったものでしたが、名前というものを初めて知り、面白がって我も我もとやって来る鬼たちすべての名を考えるのはさすがに骨が折れました。

 

 そして私は、あの細面の鬼を細鬼(サイキ)と名付けました。名前を呼ぶと、照れながら顔を綻ばせる彼が可愛らしくて、私は、サイキ、サイキ、と繰り返し呼んではにかませました。

 

 サイキによると鬼たちは生前人間だったらしく、とくに彼は生きていた頃の記憶が他の鬼よりも鮮明で、それで私に分かる言葉を話せたのだそうです。私は頼んで鬼の言葉を教わり、地理を知ろうとあちこち足を運ぶときには案内人になってもらいました。そのお礼に地上や天上の美しい光景――果てしないみどりの草原、清純な流れを奏でるせせらぎ、荘厳な雲海を侍らせ、燦然とした星々をいただく霊山にそびえ立つ神々のやしろのことなどを話してあげると、彼は懐かしそうに、あるいは興味深そうに聞き入っていました。




 そんなある日……サイキと二人、耕作に適した土地を探して岩が転がる谷間を歩いていたときのことです。前を歩いていたサイキが急に止まり、壁のように立ち塞がりました。どうしたのだろうと思って見上げると、彼の隻眼せきがん峻嶮しゅんけん稜線りょうせんの彼方に向けられており、闇がよどんだそこにはひと際高い、天衝く山が微かに見えました。その峰をにらむ彼の眉間には深い溝が刻まれ、唇をきつく結んだ顔はただならぬ険しさに満ちていました。驚いた私が声をかけるとサイキは我に返り、目を伏せてしばし間を置き、何でもありませんと薄く微笑しました。私は訳を聞こうとしましたが、それより先にサイキが苦しげに尋ねたのです。

 

 ――まだ……地上に未練はありますか――

 

 その問いにかあっとのぼせ、次いでめまいに急襲された私は倒れそうになるのをこらえ、うつむいて小さく、僅かに声を震わせながら、いいえ――と答えました。神である私でさえ黄泉国から抜け出すすべを知らないのです。夫の胸の中に帰りたいと願ったところでむなしいだけ……また涙がこぼれかけているのを見せまいと先に立ってどんどん歩く私の後ろからサイキは黙って、寄り添うように付いて来ました。

 

 なぜサイキは突然そんな問いかけをしたのか……よみがえった悲しみに心をかき乱されるばかりだった私には思いを巡らすことができませんでした。しかし、その理由はやがて明らかになりました。あのような形で……