REBEL∝VECTOR

小説/イラスト/詩/俳句 ©NaG∀T∴

 残暑の濁った夕暮れ……

 

 遠く……か細い蝉の鳴き声が聞こえる……

 

 ふと……夢うつつに目を覚ますと、友人の見舞いに出かけていた妻が頭のそばで正座をしていた。白い肌とワンピースが、窓から差し込む黄昏の陽で薄暗い赤に染まっている。マンションの西向き六畳和室、黒い台に十九インチのテレビが乗り、雑誌が無造作に置かれたガラスのセンターテーブルと白いクッションが二つある部屋……やや微熱があって見舞いを遠慮したわたしは、一人家に残って家事を片付けた後、少し休もうとクッションを枕にごろりと横になって、エアコンの効いた和室でそのまま寝入ってしまったらしい。

 

 妻は産後の友人と赤ん坊の様子について顔の上からわたしに告げ、冷艶れいえんな目をすうっと細めた。わたしは畳に肘をついて起き上がると、あぐらをかいて妻と向き合った。わたしより数年遅れ、もうじき三十になる美しく彫り込まれた顔、胸元まで流れる艶やかな黒髪、たおやかであだっぽい肉体……まどろみから抜け切らぬわたしはなぜかふいに妻を求め、抱き寄せようと手を伸ばした。いつもであれば進んで体を委ねるのだが、今日の妻は薄紅の唇に儚げな微笑を浮かべると、手に持っていた本をわたしに差し出した。表紙に何も書かれていない、ただ透き通るように白く薄い本――妻は、その本を読んで欲しいと促した。小説好きの彼女は、ときどきこうして自分の気に入った本を勧めるのだが、そのときの瞳には……それは微熱のせいで頭がぼうっとしていたからかもしれないが、何か奇妙な力……引き込まれるようなものがあった。わたしはわずかにめまいを覚えながら本を受け取り、頁を開いた。そこに書かれていたのは、次のような書き出しから始まる話だった……






 下腹部が熱く焼け、全身から燃える汗があふれて滴り落ちました。歯をぎりぎり食いしばり、岩のしとねに爪を立てる私の胎内で炎の塊が――赤子が動きます。何とか産み出そうと苦悶し、うめいていきむとほとから火が漏れて肉を焼く苦い悪臭が辺りを冒し、喉から炎のような叫びが噴き出しました。蒼白な顔で寄り添い、必死で呼びかける夫の声が遠のいていく中、私は両手を伸ばして求めたのです。私が愛した、夫の温もりを――





 ――私は夫を愛していました…………深く……深く、愛していました…………

 

 私と夫は毎夜、清らかな月光に照らされて愛し合い、四十を超える子供たち――島々や神々――をもうけ、人間や鳥獣、木々や花々といった生命が大地に満ちていくのを見守っていました。私たち夫婦は遥かな天上から泥のような地上に大地を造り出して降り立った、神と呼ばれる存在だったのです。

 

 私たちは元々血を分けた兄妹で顔立ちもよく似ており、天上一、二の麗姿れいしだと他の神々からのほまれも高かったのですが、とりわけ夫――両耳の上で黒髪を綺麗に束ねてくしを挿し、黒御鬘くろみかずらを編んで作った冠を頭にいただいて、純白の衣をまとった長躯ちょうくは、感嘆のため息が漏れるほど見事なものでした。私たちは、まばゆい光あふれる天上で過ごした幼い頃からともに笑い、ともに喜び、あらゆるものを分かち合って暮らし、そして長じたのち、ごく自然にちぎりを交わして夫婦となりました。夫は私を愛でて下さり、お前の黒髪は光をはらんだ清流のようであるとか、眉は天の三日月よりも高貴な形をし、瞳はきらめく黒耀こくようたまのようで、唇は甘く熟れた果肉より美味であり、肌は陶酔を誘うほど白く柔らかであると褒め称え、賛美に恥じらう私を求め続けたのです。

 

 そして、あるとき私はまた新たな命を宿しました。それがあの炎の赤子でした。長じたら火の神になるであろう赤子が育つにつれ、次第に下腹部が熱を持ち、脂汗が止まらなくなって意識が蒸発していきました。夫は憔悴していく私を案じ、声を荒げて赤子を流すよう迫りましたが、夫との間にもうけた愛しい赤子にどうしてそのようなことができるでしょう――





 気が付いたとき、私は闇の中にうつ伏せに倒れていました。

 ……いったい……どうしたのだろうか……

 呆けた半開きの目で黒く塗り潰された世界を見つめ、起き上がろうとして私はのろのろ腕を動かしました。肢体はなぜか麻痺したかのように感覚が不明瞭で、どことなく生気が感じられません。辺りには硫黄いおうに似た悪臭が漂い、白い衣を着ているにもかかわらず、寒さで震えが止まりませんでした。意識がもやから抜け出すにつれて胸騒ぎがどんどん酷くなり、自分が陥っている状況に混乱した私は、おぼろげな記憶の糸を憑かれたように手繰りました。死に物狂いの難産の末に炎の赤子を産み落とした私は、そのまま褥に伏せり……恐ろしく真っ黒い、巨大な魔物に飲み下されていくように―――――――――

 ――――――はっとした私は、思わず自分を抱きました。衣を通して骨に沁みる冷感が走り、ぞっとした私は突き放すように肌から手を離しました。震えはますます酷くなり、乾いた喉があえぎを漏らして痙攣しました。

 

 …………………………………………………………………………………………あぁ…………

 

 それがやっと吐き出された、かすれた叫び……私は顔を両手で覆い、ひざまずいて、恐ろしい考えを退けようと頭を振りました。

 ……死……んでなど、いない……

 私は……私は死んでいない……

 私は……私は……私は……! 私は……! 

 あぁ……! あぁぁ……!

 それは抗うほど私を強く組み伏せ、無残になぶり、冒しました。 永久の契りを交わした私の大切な半身……二人で紡ぎ続けた幸福な時……突然それを奪われた絶望――――

 私は泣き崩れました。すさまじい嵐に砕け落ちる山のように、氾濫する川にすべてを押し流される大地のように、暗黒に叫びをすべて飲み込まれながらひたすら号泣しました。私は悟ったのです。自分が死んだことを。そして、ここがかつて耳にした死後の世界、黄泉国よみのくにだということを――

 泣いて、泣いて、泣き疲れて意識を失い、目を覚まして再び……それをどれだけ繰り返したか分かりません。狂おしく嘆き、悶えながら私は夫の名を呼び、追って来てくれはしないかと待ち続けました。私たち神は、命を断ち切られない限り永遠に存在し続けます。ですから夫が自ら命を絶つか、私の様に何らかの理由で死なない限り、私たちは永遠に交わることはないでしょう。いつまで経っても現れない夫に恨みを抱くこともありましたが、私が死に際して味わった苦しみを思えば、それを願うのはあまりにも残酷です。やがて涙も枯れ果てた私はうずくまり、孤独と絶望を抱えて底知れぬ闇に沈んでいきました……

 

 ――ふと――何かの気配がしました。

 ですが、私の目は暗黒に捕らわれたままでした。その間にも気配はどんどん増え、辺りの臭気がきつくなっていきました。それが気付け薬となり、幾分正気を取り戻してしまった私はやがてうつろな瞳を上げ、周りの闇へと向けました。

そして見たのです。自分を取り巻くものを。

それはざんばら髪の頭から二本の角を生やし、肉が溶けて崩れたような容貌の、がりがりの裸をさらした醜女しこめの群れ――体臭に引き寄せられたはえがしなびた肌をい、ぶんぶん飛び交う中から向けられる 何十、何百、それ以上の不気味なまなざしを私は一身に受けていたのです。

 私をむさぼり食おうとしているのか――恐怖と嫌悪に駆られて腰を浮かしかけた私は、しかし思いました。このまま独り闇で悶え続けるより、黄泉国に落ちてなお残っている身魂しんこんを食われてしまった方がいいのではないかと。そう思うと恐れは薄れ、進んで己を差し出そうという気にさえなりました。

 私は覚悟を決め、歯を噛み締めて襲いかかられるのを待っていました。すると様子をうかがっていた鬼女きじょの一人がゆっくり、そろそろと近付いてきたのです。いよいよかと体を固くすると、近くまで来たその鬼女は私の前に何かをそっと置き、仲間のところに戻って行きました。置かれたものは両手の平ほどの大きさをした広葉こうように何かを小山に盛ったもので、そのにおいは地上の穀物のたぐいを煮たものに似ていました。

 ……食べ物? この私に?

 いぶかしむ私を醜い鬼たちは遠巻きにして、じっと見ているだけでした。