読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

REBEL∝VECTOR

小説/イラスト/詩/俳句 ©永都由崇

さよなら、クロ

 野良のクロネコは、独りぼっちだった。

 

 だが、クロネコにとっては、それが当たり前だった。暗く寒い夜、砂利の駐車場で車の下に産み落とされ、いつのまにか母や兄弟姉妹がちりぢりばらばらになってから、ずっとそうだったのだから。

 

 縄張りを持たず、自分の姿を隠す黒い夜を好んで夜風に吹かれるまま町から町を渡り歩く毎日。お腹がすけば、闇にまぎれて飲食店やコンビニのごみ箱をあさったり、飼い犬の小屋の前に置きっぱなしの皿から食べ残しを失敬したり、まだ朝暗いうちに出かける人間がごみ捨て場に出した袋を破って残飯をむさぼったりして、眠くなったら駐車している車か庭にある物置の下に潜り込む。そうした暮らしは、毛の色をますます深めていくようだった。

 

 行く先々でそんなことをしていると、縄張り荒らしだと地元の野良ネコたちににらまれることもあったが、クロネコは仲良くしようとするどころか薄笑いを浮かべ、相手とその数を見て勝ち目がありそうなら飛びかかり、無ければ一目散に逃げ出していた。そんな風にぐれた根無し草――それがクロネコだった。

 

 そんなクロネコが冬のある夜、冷たい雨を避けるために塗装があちこちはげた半開きの門扉を通り、玄関灯がついていない古びた一戸建ての玄関前で雨宿りをしていたとき、食料品で膨れたビニル袋片手に傘を差し、少しおぼつかない足取りで帰って来た家主と遭遇したのは、奇妙なめぐり合わせに他ならなかった。

 

 玄関ドアのすぐ横で丸くなっていたクロネコは、自分に目を凝らす相手をじろっと見上げた。やせて頬がこけ、ぼさぼさした白髪頭の老婆――人間にはいつも嫌な顔をされて追い払われ、危険な目に遭ったこともあるクロネコは、相手を上目遣いににらみながらそろそろと体を起こして逃げる準備をした。

 

 傘を振るうのか、それとも履き古された靴で蹴ろうとするのか――警戒しながら、ますます強く地面を打って一向にやむ気配が無い雨の中に飛び出すのをためらっていると、なぜか老婆は破顔し、まるで久しぶりに帰宅した息子を迎えたように話しかけると、薄汚れた黒のダウンジャケットのポケットからごそごそカギを取り出し、ドアを開けて中に招き入れようとした。

 

 いつもなら、中で何をされるか分からないと恐れて入らなかっただろう。だが、体が冷え切っていたクロネコはできることなら雨風をしのぎたいと思い、何か企んでいるようでもなさそうな笑顔に促されて、油断無く目を光らせながら玄関に足を踏み入れた。

 

 日陰のごみ捨て場に似た臭いが濃厚にこもる家の中は、廊下や階段、そして台所や隣の居間の床にもコンビニ弁当の空きパック、パンか何かを包んでいた袋、脱ぎ捨てられてそのままの衣類などが散らばり、シンクには汚れたコップや茶碗、皿が山のように積み重ねられていたが、小便臭い裏路地を歩き、どぶ川にかかる橋の下で眠ることもあったクロネコは気にせず、老婆が寒い部屋を暖めようと急いでストーブをつけ、買ってきたばかりの弁当パックをしゃがんで床に置き、ふたを開けて勧めてくれたのを棚から牡丹餅とばかりにがっついた。そんなクロネコの背を、老婆はマコト、マコトと愛おしそうに呼びながら優しく撫でた。




 それが、クロネコと老婆の妙ちきりんな日々の始まりだった。

 

 もっとも、初めから長居をするつもりだったのではない。しかし、久しぶりにありついたまともな食事で満腹になり、ストーブの暖かさに包まれているうちにうとうとし、床に散らかった衣類の寝床で丸くなって眠ってしまったクロネコは、居心地の良さに出て行き難くなったのだ。

 

 そうして1日、そしてまた1日と、クロネコはやっかいになり続けた。悪臭が染み付いたごみ屋敷とはいえ、三度三度近所の店で買ってきた弁当や総菜パンなどを出してもらえるし、体を温かいタオルで拭いたり、伸びた爪を切ってやすりをかけてくれたりという至れり尽くせりの暮らしは、いつもの浮浪生活と比べてはるかに快適だったから。唯一の難点は、なれなれしい老婆が、ときどきうっとうしく感じられることだった。



 そう、まるで家族か親友のように――



 あるときは『マコト』と呼んで抱き締め、あるときは『あなた』と呼んでかいがいしく世話を焼き、またあるときは『ちーちゃん』と呼んで愚痴や世間話の花を咲かせたかと思えば、『お母さん』と呼んでべたべた甘える――その日、そのときによって様々に呼ばれたクロネコは、そのうちに『マコト』というのが老婆の息子、『あなた』が夫、『ちーちゃん』が学生時代からの女友達で、『お母さん』は母親らしいと分かってきた。

 

 最初は《ごっこ遊び》に付き合わされているのかとも思ったが、老婆の目は本気そのものだった。クロネコは本当に息子や夫、親友や母親だと思われているのだ。一度、何となく虫の居所が悪かったクロネコが隣に寝っ転がってきた老婆からさっと離れて隣の居間の座卓の下に潜り込んだところ、老婆はごみだらけの台所の床に座り込んでしくしくと――まるで幼い少女のように泣き出してしまったことがあって、このときは自分勝手なクロネコも何となく気がとがめ、以降、露骨に避けることはしないようにした。

 

 自分――と言うか、誤認している相手への態度からすると、この老婆はよっぽど人好きなのかとクロネコは思ったが、実際はそう単純ではなかった。雨戸が閉め切られ、たまに開けても外からのぞかれないようカーテンをぴっちり閉めた家を訪問する者はめったにおらず、ときどき知り合いか何からしい人間がチャイムを鳴らして玄関ドアを叩き、カーテンで遮られた掃き出し窓越しに親しげに呼びかけても、老婆は眉間に縦しわを深く刻んで今忙しいとか用は無いとか言って拒絶し、かかってきた電話も無視するか、受話器越しに乱暴な受け答えをしてガシャンと切っていた。もしかしたらその中に『マコト』や『ちーちゃん』がいたのかもしれなかったが、そういうときの老婆は、クロネコに接するときとはまったくの別人だった。

 

 壊れている――

 

 この老婆は、病気か何かでおかしくなっている――薄気味悪くなったクロネコは何度か出て行こうとしたが、老婆はいつも大事にしてくれるし、外で吹き荒んでいる寒風の音を聞くとストーブから離れ難く、弁当や総菜パンの誘惑にも打ち勝てず、結局ずるずる居候を続けた。

 

 しかし、この生活がいつまでも続く保証は無い。老婆の気が急に変わって追い出される可能性だってある。何しろ相手は《壊れている》のだから。だったら、この暮らしができるだけ続くようにしよう。老婆の心が穏やかであるようにできるだけ役になり切ってだましてやろう――そう決心したクロネコは、うっとうしいという気持ちを脇に置いて演技に力を入れるようになった。『マコト』のときは素直な良い息子になり、『あなた』のときは少しいばった感じで、でも妻へのいたわりを忘れない夫を演じ、『ちーちゃん』のときは脈絡無くぽんぽん飛ぶ長話に耳を傾けて相槌を打ち、『お母さん』のときは甘える老婆のたるんだ頬やしわしわの手を優しくなめてやった。そうやって真剣に取り組んだクロネコは、いつしか立派に家族や親友になり切ることができるようになっていた。

 

 これで当面は安心――古ぼけた座卓の上に座ったクロネコは、広げた大学ノートに意味不明な記号や数字を羅列して熱心に勉強を教える老婆に分かったふりをしてうなずきながら、密かに苦笑した。普通ではありえない、奇妙きてれつな状況。だが、自分が役を演じることで老婆は毎日生き生きと過ごせている――言わば人助けをしているようなもので、ストーブと3食昼寝付きは当然の報酬だなとクロネコは考え、そして、これができるだけ長く続くように願った。老婆と自分との、不可思議な暮らしが……




 だが、それは突然終わりを告げた。

 

 いつものように抱かれて2階にある寝室の布団に入り、翌朝目覚めたクロネコは、老婆の様子がおかしいことに気付いた。肌からぬくもりが失われ、いくら耳元で鳴いて前足で頬を叩いても、安らかな寝顔はまぶたを開かなかった。

 

 クロネコは動転した。

 

 それが初めて死に接したからなのかはよく分からなかったが、うろたえたクロネコは老婆を起こそうとむなしくあがき、それが無駄だと悟ると枕元にがくっと座った。

 

 雨戸が閉め切られた暗闇の底で、どれくらいそうしていただろうか。不意にチャイムが鳴り、玄関ドアをノックする音がクロネコの耳に届いた。ときどきやって来ては追い返される訪問者の1人――前足でふすまを開けたクロネコは階段を駆け下りて玄関の三和土たたきに立ち、そこで精一杯声を張り上げて鳴いた。中から聞こえるただ事ではなさそうな鳴き声と、いつものような老婆の反応が無いことに外の人間も異常を察したらしく、しばらくして遠くからけたたましいサイレンの音が家に近付いて来たかと思うと、居間の雨戸が外されて掃き出し窓のガラスが割られ、割れ目から手を突っ込んでカギを開けた制服姿の人間たちが散らかり放題の家にあわただしく上がって、2階の寝室で老婆のなきがらを発見した。

 

 それからのことを、クロネコは部屋の隅や廊下の奥からぼんやり見ていた。いろんな制服姿が家に上がって遺体の周りに集まり、最後には袋に入れて階段を下ろし、家の前に駐車させていた白い大きな車に乗せてサイレンを響かせながら運び去るのを陰から見送った。やがて人間はすべて消え、クロネコだけが玄関ドア前に残り、薄曇りの寒空の下で身を縮めていた。

 

 どうして、そんなにショックを受けているのだろうか?――クロネコは自問した。

 

 暖かいストーブや食事、寝床が無くなったから?――いや、それとは違う、もっと大きな何かが消えていた。やがて夜が訪れ、二度と明かりがともることの無い家が闇に埋もれたとき、クロネコはうつろな足取りで門扉の隙間を通って出て行った。家路を急ぐ人間たちと何度かすれ違い、窓から暖かな光が漏れる家々の暗い狭間を歩き続けたクロネコは、幅の広い川を見下ろすことができる土手の上の道に立っていた。道は真っ黒な川沿いに上流と下流とに伸び、それぞれの道の向こうには対岸につながる橋がかかっていて、その先には夜に眠る町が見えた。

 

 どこに向かおうか……思案したとき、クロネコは強く胸を締め付けられ、そして立ち尽くした。行く当ても、待っている者もいない。自分には孤独があるだけなのだ。それを思い知らされたとき、クロネコの両目から涙があふれ、老婆との思い出が鮮やかによみがえった。『マコト』として母に孝行し、『あなた』として亭主関白しながら良妻ぶりを褒め、『ちーちゃん』としてたわむれながらおしゃべりの相手をし、『お母さん』として娘を慈しんだ日々――老婆の魂とともに自分の中から消えてしまった存在の空隙がとめどなく涙を流させ、ぼたぼたと地面に落とした。



 壊れた老婆を慰めてやっている――



 それは、愚かな傲慢だったのだ。役を演じていたとき、クロネコは息子や夫、親友や母親だと信じる老婆の愛情に、絆のぬくもりに安らいでいたのだ。もしかしたら心の奥底でずっと求めていたのかもしれない、投げやりに生きるばかりで背を向け続けてきた尊い感覚の衝撃にクロネコは崩れ、白銀に光る満月の下で体を震わせて泣き続けた。

 

 やがてクロネコは泣き疲れ、眠りに落ちた。そして時が経ち、寒さにぶるっと身を震わせて目覚めると、ふらふら立ち上がって辺りを見回した。白んだ空の下、左右に伸びる道も上流と下流とにかかる橋も、その先の町も変わらずそこにあったが、うっすらと光に照らされるそれらは別物のようだった。黒い夜を放浪し、陰から陰へとさすらう生活では決して見ることができなかった光景――じっと見つめていたクロネコは、やがて地平から光があふれてくる方角へ向き直った。ゆっくりのぼる陽の光が毛をきらきらと輝かせ、黒を薄れさせる。

 

 またあんなぬくもりを感じることが、絆を結ぶことができるのだろうか――不安に胸を高鳴らせながら、野良ネコは光へと一歩ずつ足を踏み出した。