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REBEL∝VECTOR

小説/イラスト/詩/俳句 ©永都由崇

『あれ』

 ……始まりは昨年11月半ば、風が低くうなる週末の夜更け……――

 PCとつながったヘッドフォンを外してキーボードの脇にコトッと置き、わたしは薄闇で発光するディスプレイの前で感涙を指で拭い、鼻水をすすっていました。人と異種との出会いと共生の物語――わたしのお気に入りのテーマの一つ――余韻がいくらか引き、幕が下りた画面の隅に濡れた目をやると、時刻は午前2時近く。もう寝なきゃ――PCをシャットダウンしたわたしは真っ暗な部屋を慣れた足取りで歩いてベッドに潜り込み、明日は友だちと遊びに出かけて、夜一緒に勉強するんだと予定を確かめてうとうとし始めました。そのとき、壁越しに妙な音が聞こえるのに気付いたんです。

 ざらついた舌でなめ回すような、無数の肢でガサガサ這うような……うまく表現できないけど、耳をかすめただけで全身の神経が末梢まで茨に変わって筋肉がひきつらずにはいられないような、とても気色の悪い音が聞こえる隣……そこはあの人――兄の部屋でした。階段を上がってすぐのわたしの部屋の隣、奥で向かい合っている父と母の部屋の手前……

 何、この音?――

 うっすら吐き気を覚え、わたしは壁を背にごろっと寝返って掛け布団を頭に被せました。やりたいことがまだ見つからないからと高校卒業後、進学もバイトもせず家にいて、日がな一日スマホをいじるか寝ているかだけのあの人……始めの頃は両親も苛立たしげにうるさく言っていましたが、そのたびに兄は閉じこもって、しかもだんだんその時間が長くなっていき、1年以上経った今は深夜自室を出てトイレ、それから冷蔵庫の食べ物――母が仕方なく兄分として買って入れておく出来合いのおにぎりやパン、弁当など――をあさって戻るだけになったので、わたしたちの方もさじを投げて無視するようになっていました。

 ――いったい、何してるの?……

 掛け布団をかぶってもなお、鼓膜を微かに震わす不快な異音……不気味過ぎるためにかえって確かめずにはいられなくなったわたしはそっとベッドを出、外開きのドアをスローモーで開け、忍び足で隣に近付くとドアに耳を当てました。

 ――うわッ!……――

 よりはっきりと聞こえる音にのけぞり、背中を曲げ、口に手を当てて吐き気をこらえたわたしは戻ろうかとも思いましたが、勇気を振り絞って恐る恐る、かすれ声でドア越しに兄を呼んでみました。

 すると、音はぴたりと止まりました。

 そこでやめておけば良かったのかもしれません。

 でも、音が止まったことでわたしはちょっと大胆になり、ドアノブに手をかけ、こわごわと手前に引いてしまったんです。

 ――ッ!

 化学の実験で嗅いだ悪臭が可愛らしく思えるような、すさまじい刺激臭が鼻の奥をズグッと突き、ビクッと手を止めさせました。全身がこわばって息苦しくなり、冷たい汗がじわっとあふれて――でも、何が起きているのか知りたいという思いに押されてわたしは体をギチギチ動かし、5センチほど開いたドアの間から真っ暗な室内に目を凝らしましたが、兄の気配はおろか、音の正体を突き止めることもままなりません。警告するように早鐘を打つ動悸――しかし、今さらやめられなかったわたしは、隙間から手を差し入れてドア脇の壁をまさぐり、照明のスイッチに触れるとそれを入れました。

 瞳を焼くように明かりがつき、あらわになる兄の部屋――

 冬用掛け布団がだらしなく乗ったベッドの上やその周りに空き袋、空の弁当容器、使用済みのティッシュなどが捨てられ、床のあちこちで重なり、崩れたマンガが埃をかぶる汚部屋――兄はどこかと捜したそのとき、鼓膜から脳に突き刺さった鳴き声にわたしは目を上げ、天井から飛んだ『あれ』を見て――



 ……気付いたとき、わたしは1階のリビングにあるソファで横になり、父と母に見下ろされていました。顔が青ざめ、ガチガチにこわばった両親から聞いたところによると、異様な鳴き声を耳にして部屋から飛び出した2人は気を失って倒れているわたしを見つけ、そしてドアの隙間から『あれ』を目にして腰を抜かしたのだそうです。へたり込んでいる間、『あれ』は狂ったように壁や家具にぶつかりながら室内を飛び回り、そして偶然照明のスイッチに当たって明かりが消えると闇の中で狂気が静まったので、それでどうにか父がドアを蹴って閉め、母と一緒にわたしを抱えて下に運んだそうです。

 わたしは『あれ』を思い出し、身震いしました。

 すると、両親が『あれ』のことをおぞましそうに語り出しました。しかし、ドアの隙間からだったせいか、わたしと父と母とが記憶している姿はそれぞれ違っているようでした。共通しているのは、思い浮かべているうちに毛穴から脂汗がジュクジュクあふれ、すさまじい寒気で体がガタガタガタガタ震えて倒れそうになるくらいおどろおどろしい存在だということ……そして、『あれ』の正体……他人には理解できないでしょうが、わたしたちはそれぞれ確信の度合いに差はあったものの、自然に関連付けていたんです。『あれ』は兄――兄が変わり果てたものに違いないと……




 その夜から、わたしたちと『あれ』との生活が始まりました。

 食べ物を求めてドアを開けることもなく、かといって飢え死にもせずに生き続ける『あれ』は光が嫌いらしく、雨戸とカーテンが閉め切られたままのじめっとした部屋の中で時折動くくらい。一日中明かりがつけられている廊下に出て来ようとはしませんでした。

 家の雰囲気は、一気に荒みました。

 もともと両親の仲はあまり良くなく、家族はほとんどバラバラでしたが、サラリーマンの父は帰宅が前よりも遅くなり、帰って来ない日も多くなりました。家にいるときは1階のリビングのソファで眠り、母や私を頻繁に怒鳴っては天井――『あれ』がいる部屋の方を憎々しげににらんでいました。

 母は体調を崩してスーパーのレジ係のパートを休みがちになり、心療内科クリニックに通い始めました。わたしも冬の薄暗さと身を切る寒さもあって毎日ひどく憂鬱で頭がとても重かったのですが、来年は受験でしたし、家にいるよりはマシだったので学校には体を引きずって通いました。授業に集中していると家のこと、『あれ』のことを忘れられましたが、ふとした瞬間――二次不等式の問題に苦心しているときや棒高跳びでマットに落ちて薄曇りの空が目に入ったときなんかにそれらがゴボゴボッと浮かんで顔をゆがめました。

 そんな思いをしていたわたしたちでしたが、家を離れることはできませんでした。ローンがかなり残っていましたし、もし家を売るとなったら『あれ』が問題になってきます。わたしたちには――変わり果てたとはいえ『あれ』を兄と結び付けていたわたしたちには、『あれ』を表に出すことはできませんでした。それはどんなにものすごい恥をさらすより遥かに苦痛だと思えましたし、目にした人たちが『あれ』をどうするか分からないという恐れもありました。何よりわたしたちは、考えることさえも拒んでいたのです。

 『あれ』が兄とは一切関係がない、ただの『あれ』だったら……

 そうしたらこんなにも苦しむことはなく、きっと父は怒りに任せて部屋に乗り込み、殴り殺していたかもしれません。でも『あれ』は兄だったから、わたしたちはギリギリのところで踏みとどまっていたんです。

 そんな訳で『あれ』は放置され続けました。両親はあの部屋に極力近付かず、わたしも自室にいるときは隣から物音が聞こえないようにヘッドフォンをして音楽を流し続けながら勉強し、眠るようになったんです……



 ……だけど、わたしはそんな自分が嫌だとも思っていました。

 確かにわたしたちは苦痛を味わっています。『あれ』のことをちょっと意識するだけで胸がものすごく悪くなり、両親はいつもイライラ、欝々。家庭環境はメチャクチャです。

 だけど、よく考えてみると『あれ』がわたしたちに危害を加えた訳じゃないんです。

 家計を圧迫したり他人に迷惑をかけたりもせず、閉じこもって生きているだけ。ギャンブルにのめり込んだり暴力をふるったりするような家族より、よっぽど無害なのかもしれません。醜貌と悪臭は問題ですが……そう考えると何だかかわいそうな気がしたわたしは、どうにか穏やかに暮らしていけないかなと思案するようになりました。それは、私が見てきた異種との接触と共存の物語の影響でした。



 年が明けて冬が終わりに近付いた頃、わたしはヘッドフォンを外して過ごす努力を始め、隣の部屋にいるのは物語に登場するイケメン異星人やカッコかわいい獣人、神秘的な生命体とかなんだと自分に言い聞かせました。最初はつらかったですが、わたしは歯を食いしばりながら外している時間を少しずつ伸ばしていき、そして壁に向かって声をかけ始めました。おはようとかおやすみとかそんな程度でしたが、わたしは異種に歩み寄ろうとするヒロインになったつもりで根気よく続けたのです。

 そうした行いを両親に話しはしませんでしたが、何となく家の空気に影響を与えたのかもしれません。母の鬱症状はいくらか軽くなり、父のいら立ちも少し落ち着いた感じがしました。時間が経つにつれて両親も少しずつ『あれ』を気にせず生活できるようになり、家の中に重くよどんでいた濁りが徐々に薄れていくようでした。わたしは良い方向に動き出しているんだと思い、内心喜んでいました。あのときまでは……



 ……事件が起きたのは『あれ』との生活が始まってから10ヶ月くらい経った、蒸し暑い夏のある晩でした。夏休みの終わりが近付いていたので、わたしは新学期に備えて参考書とノートを机いっぱいに広げ、ヘッドフォンをつけて気分を盛り上げる音楽を流しながらガリガリ勉強していました。一段落付いたところで喉の渇きに気付き、手元のペットボトルが空になってしまっていたので、わたしは下のダイニングキッチンに行って何か飲もうと部屋を出て、思わず立ちすくみました。

 隣の部屋のドアが、半分ほど外側に開いていました。

 あの日からただの一度、ほんの一ミリだって開かれたことがないドアが……!

 ……まさか……でも、廊下の電気はいつものようにつけっぱなし……そんなはずは――

 頭がぐらぐらし、毛穴から汗がどっと噴き出して体がぶるぶる震えました。毎日壁越しに声をかけていたのに……わたしは胃袋からこみ上げるものをこらえ、意識の暗闇から浮かび上がってくる『あれ』の姿を映画やアニメに出て来る異種のイメージで必死にオーバーライトすると、息を殺してドアに忍び寄りました。ドアからすぐのところは廊下の照明の光が差し込んでぼんやり見えはするものの、そこから先は真っ暗なので『あれ』が中にいるのかどうか分かりません。だからといって、あのときのようにドア横の照明のスイッチに手を伸ばすことができなかったわたしは、ひどくなる動悸を落ち着けようと都合良く解釈しました。きっと長いこと閉じこもっていたから、たまには空気の入れ替えをしたくなったんだろう、なんて……

 わたしは中にいるはずという前提でドアノブに手をかけ、そっと押しました。

 ――チャッ

 ドアの閉まる音がいやに大きく響き、わたしは吹っ飛ぶように階段の方へ飛びのきました。閉められた部屋からは、何の反応もありません。わたしは胸を撫で下ろし、いっそう乾いた喉を潤そうと顔や首筋の汗を手で拭いながら薄暗い1階へと階段を一歩一歩下りました。すると、ダイニングキッチンに続くリビングのドアが見え、その向こうからソファで寝ている父のいびきが聞こえました。それに心強さを覚えたわたしは1階廊下の照明をつけ、父を起こさないように気を付けてドアを開けたところで悪臭に鼻の奥をえぐられ、胸をドンッとぶん殴られたようなショックを受けて硬直しました。

 『あれ』が――『あれ』がいたんです! 父が下着姿で眠っているソファのすぐ横、わたしからほんの2、3メートルの距離に!

 廊下の照明の光をうっすら浴びて浮かび上がるその姿――はっきりと覚えてはいなかったけれど、以前見たときよりも醜く成長しているように思われるそれは、何も知らずにいびきをかいている父の横に立っていました。

 わたしは、絶叫しました。

 仰天して飛び起きた父はすぐ横にいる『あれ』に気付いて半狂乱になり、ソファの背もたれを乗り越えて後ろの床にドタッと落ちると、そばにあった木製のダイニングチェアを反射的につかんで殴りかかっていきました。直撃を受けた『あれ』からどす黒い粘液がバアッと噴き出し――それを浴びて全身黒く汚れた父は発狂した猿のごとく叫び、何度も何度も何度も、繰り返し、繰り返し殴り付け、それをわたし、そして騒ぎを聞き付けて下りて来た母は戦慄しながら凝視していました。飛び散るどす黒い粘液で衣服や肌を汚しながら……



 ……それからどうなったか……気を失っていたのか、記憶が欠落していて思い出せません……覚えているのは両親が汗だくになりながらリビングを掃除している光景で、そのときにはもう『あれ』もどこかに消えていました。

 そして、数日のうちに汚れたソファなどの家具や壁紙はすべて取り返られ、表面的な平穏が戻りました。父は出勤のため朝早く最寄り駅まで歩き、夜8時くらいに帰宅、母はレジ係のパートを再開、わたしは大学受験に向けて勉強に励み、放課後は図書館で自習したり塾に通ったりする生活――2階の空き部屋は閉ざされたまま、まるでそこにドアも何も無いように両親は前を通り過ぎます。2人は『あれ』が兄ではない、兄はとうの昔に死んだのだと無理矢理思い込もうとしていました……わたしもこの家で起きたことを忘れてしまいたいと思うことがあります……でも――




 ――進路を変更したわたしは、今、受験勉強の追い込みに入っています。ヘッドフォンを外していても隣からは物音一つしません。

 『あれ』――兄はもういないのです。

 それを思うたび、胸がひどく締め付けられ、涙があふれてきます。

 間違っていたのです、わたしたちは。

 閉じ込めて無視することに慣れてしまうのはもちろんですが、勝手なイメージを投影するのも愚かなこと……『あれ』は『あれ』であって、大衆向け作品に出てくる異種のようにしょせん受け入れやすく作られているものとは決定的に違うのに……わたしたちがそんなことをしている間に『あれ』はより醜く成長し、ついには部屋を抜け出して……わたしは、あのとき父を止めることさえ……きちんと向き合っていたなら、あんなふうにフリーズはしなかったでしょう……自分たちから見てグロテスクだからと排除していたわたしたちこそ、本当に醜悪な怪物ではないでしょうか……だからわたしは、人々が異なる存在と共生していくために役立つ仕事に就きたいと思うようになったんです。もし……また『あれ』が現れたときのためにも――