REBEL∝VECTOR

小説/イラスト/詩/俳句 ©NaG∀T∴

Mov.50 赤い死の仮面(2)

 

 いくつもの林に囲まれてそそり立ち、ライトアップされて白く輝く大理石の巨大ピラミッド……星の欠片すら見えない夜空に映えるルルフキャッスルへ、てんでんばらばらに枝を伸ばす木々の間を風のように駆け抜けて接近する影――

 黒装束のクォン・ギュンジ――

 ヘッドギアに装着した暗視スコープを頼りに、黒カプシンで下生えを蹴って走り――傲岸な光輝がいよいよ近くなったところで突然クォンは木陰に飛び込み、イジゲンポケットから出したドッペルアドラーを握るや自分が走って来た方角をにらみつけた。

 

「……誰だっ!」

「クォンさん?――あたしです。篠沢です」

「篠沢? 篠沢・エリサ・紗季?」

 

 緑一色の画像に目を凝らしたクォンは、自分同様に暗視スコープを装着したジャージ少女が手を振るのを認めて唇を曲げ、陰から出ると近付いて来た相手を問いただした。

 

「どうしてここにいるんだ? 監視されていたはずだろう?」

「こっそり抜け出したんです」暗視スコープを上げる紗季。「皆意気消沈してて、あたしの見張りどころじゃなかったですよ」

「ちっ……!」

 

 舌打ちし、左手で暗視スコープを上げたクォンは目の前の紗季をにらんで吐き捨てるように続けた。

 

「――見張りもまともにできないなんて……まったく、当てにならない連中だ」

「らしくないですね」

「あん?」

「そんなふうにいらつくなんて、嫌味でずる賢いクォンさんらしくないですよ。少しクールダウンしたらどうですか?」

「何をっ……!」

 

 クッと上がったドッペルアドラーの穂先は間も無く戻り、苦虫をかみ潰したような顔が背けられる。

 

「……生意気な口を……それより、一体全体ここで何をしているんだ?」

「多分クォンさんと同じ――斯波を助けに行くんです」

「ふん、どうしてボクが斯波ユキトを助ける?」

「高峰さんに一泡吹かせるためですよ。それくらいしなきゃ今朝の雪辱はできないし、斯波に助けられっぱなしってのも気分良くないんじゃないですか? だから、勝利に浮かれて警備が緩くなっているところを突くつもりでしょう?」

「……断っておくけど、ボクはキミと――」

 

 キツネ目が横へひらめき、魔力を帯びて発光した左手がバッと闇へ突き出されて――

 

「――出て来い! 姿を見せろ!」

 

 臨戦態勢から凄むクォン――と、下生えがガサガサ音を立て、ドレスシャツにブラックストライプ柄ベスト、グレーのデニムジーンズ少年が闇からゆっくり現れて装備していた暗視スコープを上げる。

 

「ジョアン? ジョアンじゃない!」

 

 紗季が暗視スコープを下ろして確かめ、再び上げて歩み寄る。

 

「――あんた、こんなところで何してんの?」

「何をしようと勝手だろ」

 

 素っ気なく返し、ジョアンは枝葉のシルエット越しに鋭角なピラミッド上層を見据えた。

 

「――ちょっとあそこに用があるだけさ。勝利に酔っている今がchanceと思ったんだけど、まさか君たちとencounterとはね」

「ふっ、振られた女に未練タラタラタラ~なんだな」

 

 おちょくるクォンにジョアンはむっとし、目的地の方へ黙って歩き出した。

 

「あっ、ねえ、あたしたちもあそこに行くの。捕まっている斯波を助けるのよ」

「……悪いけど、Leave  me  aloneで」

「そうはいかないぞ、ジョアン・シャルマ」

 

 ドッペルアドラーを肩に担ぎ、斜め後ろから絡むクォン。

 

「――キミなんかにチョロチョロされたら迷惑なんだ。邪魔なんだよ。オーケー?」

「だったら、どうするって言うんだ?」

「ちょっと、ちょっと! 仲間割れはやめようよ」

「ん? 誰と誰がfriendsだって?」

「そうだ。おかしなことを言うのはやめてくれ。不愉快だ。とてつもなくね」

「あー、もうっ! とにかく、あたしたち3人ともあのピラミッドに潜入するのが目的なんだから、取りあえず協力しましょうよ。ばらばらに行動してたら、足を引っ張り合いかねませんよ?」

「ボクは、ルルフを改心させに行くんだ。purposeが違うよ」

「四の五の言わないの! まず斯波を助け出し、気付いたガーディアンズが捜索に出て警備が手薄になったところで高峰さんに近付いた方がいいんじゃないの?」

「それは、そうかもしれないけど……ええいっ、分かったよッ!」

「よぉし。――クォンさんもいいですね?」

「……ちっ、仕方ないか……」

「決まりですね。じゃ、お願いします、クォンさん」

 

 お見通しという顔の紗季にうるさげなため息をつき、「付いて来い」とぶっきらぼうに言ったクォンはドッペルアドラーをイジゲンポケットに戻し、暗視スコープを下げて走り出した。遮る木々を右に左に避け、林の闇を駆ける者たちの息づかいがはずんで――先頭のクォンが足を止めて後ろを手で制し、林が途切れる手前、ねじれた太い幹の陰から暗視スコープの望遠倍率を上げて200メートル弱先の輝きを偵察する。荘厳な大理石ピラミッドはクォンたちに右斜めを向けており、林が遮らない正面では、ハイパーゴッデス号を地下に収容した巨大カーリフトの屋根が地面に鋼鉄で長方形の領域を作っている。

 

「は~、こうして近くで見ると、とんでもなくご大層ね……ここで高峰さんとルルラーたちがシェアハウスしているのね」

「そう、宮殿兼奴隷牧場さ。ルルフが住む上層に少しでも近付こうと、ルルラーたちは共同生活で生活費を抑えながら競ってポイントを献上しているんだ。まったく、あのツインテールはとんでもない亡者だよ。――なぁ、ジョアン・シャルマ君?」

「……そんなことより、どうやってあそこにstealんだ? それに、ユキトはいったいどこに?」

「慌てるな。――見ろ、正面入り口……」

 

 暗視スコープ越しにうかがう紗季とジョアンに、クォンがあごで示す。最高級ホテルのそれをはるかにしのぐグレードのエントランスでは、ツインテールデザインのヘルメットをかぶったガーディアンが自動ドアの左右で眠そうにあくびをしていた。

 

「ミストを使うぞ。ガスマスクをしろ」

 

 紗季がイジゲンポケットから出し、ジョアンにStoreZで購入させてともども鼻と口を覆うと、クォンは右手をルルフキャッスルへ突き出し、指先から霧をフオオッと噴き出した。緑色の画面で霧は闇に紛れてエントランスへ這うように忍び寄り、警備の足元から巻き付くように顔へ――鼻へ口へと襲いかかるや、たちまちふらふらっと地面に倒れ込ませた。

 

「……あれ、poison  gasなのか?」

「霧の魔人――首藤さんのと同じものらしいよ。幻覚で惑わすの。――ですよね、クォンさん?」

「ボクの方が、ずっとうまく使いこなせているさ」

 

 紗季を見やり、黒い胸を張ったクォンはジョアンにも聞こえるように注意した。

 

「キミは知っているだろうが、ミストは視覚からも僅かに作用する。気をしっかり持っておくんだね。――行くぞ」

 

 紗季たちを促したクォンはエントランスに素早く接近――丸まって苦しんでいるガーディアンの片方に近付くと蹴って仰向けにし、右手に出現させたドッペルアドラーを握って脇にしゃがんだ。

 

「おい、ボクが分かるな?」

 

 暗視スコープを上げたクォンを見て血走った目を見開くブラジル系少年の喉元に、殺気でぎらつく穂先が突き付けられる。

 

「――今見ている幻覚で悶死するか、喉を突いて殺されるか、どちらか選べ。さぁ、早く早く」

「……う、うう……や、やめ……」

「どっちも嫌かい? だったら、斯波ユキトがどこにいるか吐け。そしたら助けてやるよ」

「……ち、地下……地下室に閉じ込められているらしい……」

「地下室か。そこにはどうやって行くんだ?」

「1階フロア奥……エレベーターホール横の通路……突き当たりの階段から……」

「そうかい。ありがとさんコマウォ

 

 にやりと笑うや少年の顔に左手がかざされ、指先から噴き出たミストが鼻と口から押し入る――と、途端に表情がねじれにねじれ、戦闘服にプロテクターの姿がうめき、陸に投げ出された魚のごとく七転八倒――

 

「ちょ、ちょっと大丈夫なんですか、クォンさん?」

「殺しはしないよ。そんなことをしたら、キミがうるさいだろうからね。さて――」

 

 クォンはドッペルアドラーをイジゲンポケットにしまって自動ドアに向き直り、軽く体をほぐして深呼吸すると、暗視スコープを上げた紗季とジョアンへ抜き身のまなざしをひらめかせた。

 

「ミストをフロアに送り込み、その混乱に乗じて斯波ユキトを救出する。――それじゃ、始めるぞ!」

 

 黒カプシンが前に出るとドアがスーッと左右に開き、突き出された両手の先から噴出した濃霧が燦然とした内部へドッと流れ込んだ――

Mov.50 赤い死の仮面(1)

 

 きらびやかな円柱型の密室がスウッと上昇――沈み込む感覚に襲われ、ユキトは重い頭をいっそう垂れた。

 

(……これさえなければ……)

 

 両手首にはまる封印の手錠から陰鬱な目をのろのろ動かし、自分の左前――コントロールパネル前に立つ北倉のがっちりしたレザーの背をうかがい、背後から見張るガーディアンの気配をスウェットパーカー越しに感じて眉根にしわを寄せ、むくんだまぶたをずるずる下ろす……戦闘に次ぐ戦闘の末に捕虜になり、ハイパーゴッデス号に収容されてルルフキャッスルへ連行、客室に放り込まれて取り調べを受け……そして、今はルルフが謁見するからと呼び出されて……早朝から半日弱の間に蓄積した疲労、それによって増しただるさが少年をひどく鈍らせていた。

 

「――おい、降りるぞッ!」

「――ッ?」

 

 北倉の野太い声にハッとすると、停止したエレベーターのドアが大広間へと開いていた。前後から挟まれて降りると、ベランダに続く正面のガラス戸から夕暮れ間近の陽が煩わしげに迎え、右側では金でごてごて装飾された両開きの白扉が、左右に立つ警護のガーディアンともども陰影を付けていかめしく待つ。それらを見て頭の奥に鈍痛を感じたユキトは、いら立ち混じりのため息を無機質な大理石の床に吐いた。

 

「――何だァ、その態度はァッ!」

 

 振り返った北倉がガッと胸倉をつかみ、唾を飛ばして怒鳴る。ユキトがとっさに腫瘍然とした黒い右手でレザーの腕をつかむと、スウェットパーカーを放した北倉はそれを邪険に振り払って嫌悪をあらわにした。

 

「気色悪い手で触るんじゃないッッ!」

「――好きでなってるんじゃないですよッ!」

 

 瞬間沸騰し、食ってかかったところをガーディアンが羽交い絞め――もがきながら、手錠ごと右手が北倉へ突き出される。

 

「――これのせいでいつもいつも体がつらくて、それがだんだんひどくなって、最後には消滅して死ぬ……! なりたくてなってるもんかッッ!」

 

 剣幕に、少し言い過ぎたという顔で閉口した北倉に入るコネクト。それはルルフから何の騒ぎかと問うもので、白扉を一瞥した北倉は「何でもありませんッ!」とへらへらごまかし、ウインドウを閉じると表情を引き締めてユキトをギロッとにらんだ。

 

「ゴッデス・ルルフ様がお待ちだッ! 来いッ!」

 

 北倉は左右に命じて白扉を内側に開けさせ、ユキトに角ばったあごをしゃくると、先に立ってローズカラーの絨毯が敷かれた室内に入った。重い足取りで仕方なく続くと――

 

(――うッッ!)

 

 飛び込む、太陽のごとき輝き――くらむ両目――マホガニーのテーブルを前に、上座でロココ調の豪奢な椅子にゆったり座ったまばゆさ――ゴッデス・ルルフは、凡百のカリスマを瞬時に消し飛ばす神々しさでだだっ広い応接間を神の領域に変貌させていた。

 

(……ダメだ、しっかりしなくちゃ……!)

 

 こぶしを固めて爪を手の平に食い込ませ、全身をこわばらせて絨毯を踏み締める後ろでバタンと閉じられる扉……とりこになりかけた意識を強引に横へそらすと、そこにはひだ襟付きの中世ヨーロッパ貴族然とした服装の鎌田が大きな紫の角帽をかぶって控え、ユキトを冷ややかなジト目で見据えていた。

 

「ウェルカ~ム、ユッキー♥」

 

 抱き寄せるような声につい視線を転じると、銀のクラウンの下でとろける微笑みが目を焼き、身構えていた頬が無意識に緩む。白のレーストリムグローブをはめた手で招かれるままユキトは北倉より前に出て、天上からつり下がった宝石製の巨大タランチュラにも見えるシャンデリアに照らされながら瞳のブラックホールへ引き寄せられて行った。

 

「カマック、ロベー、ちょっと外して」

 

 にこやかな命令……両名は危険だ何だと渋ったものの、おとなしく応接間から出て行った。扉が閉じられた、2人だけの密室……ルルりんシアターの楽屋でのことを思い出して焦りながら、ユキトは椅子から立ち上がってツインテールをきらめかせ、黄金のドレスの裾を引きずって近付く女神を凝視し続けていた。

 

「やだなぁ、そんなに緊張してぇ~ 楽にしていいんだよ。リラックス、リラックス~」

(――うくッッ!)

 

 正面に立ったルルフの右手が左肩に触れると、快感の電流が全身に走る。さらに肩がもまれると、固くなっている自分がどろどろ溶けていきそうになった。

 

「――だいぶお疲れみたいだね。朝から色々あったもんね~」

「……い、いったい何の用なんだよ……?――ぬッッ!」

 

 右肩に食らい付く、白い左手――いかずちのごときショックの後に恍惚が全身を蝕み、なまめかしく動く濡れた唇が視界を占める。

 

「ユッキー、ルルのしもべになりなさい。悪いようにはしないからさ~」

「またその話……君のために働けっていうのか……」

「そうだよ」ルルフは、たくましく腫脹した右腕をちらっと見た。「ユッキーの力を、ルルのために役立てて欲しいんだ~」

「……高峰さんだって――」

「『ルルりん』でしょ? ほら、ル・ル・り・ん♡」

「……ル、ルルりんだって知っているんだろ。デモン・カーズは、力を使うほど進行するって……」

「丸まって祈ってれば救われるの? 今のところ、ユッキーが助かるにはディテオを倒して黒の十字架を手に入れるしかないんだよ。悪いこと考えてる人たちとの競争に勝ってね。それをユッキーだけでやるのは無理だから、ルルと一緒に頑張ろうって言ってあげてるんだよ。体がつらくなったときは、ルルがハイパーに癒してあげるからさ」

「……ル、ルルりんに協力して、僕が助かる保証なんてあるのか……?」

「あるよ~ ルルが助けてあげるって約束してるんだもの。信じてくれるでしょ?」

「……く……」

 

 両肩に食らい付いた手が次第に重くなり、膝が今にも折れそうになる。

 

(……い、いや、ダメだ。信用なんてできるもんか……だ、だけど……)

 

 疲労と誘惑で弱った心にかかる力が強まり、体が少しずつ沈んでいく……このまま膝を屈し、ルルフにおぼれてデモン・カーズのことも、絡み合い過ぎた人間関係のことも、何もかも忘れてしまいたい……陶酔にいざなうフェロモンが葛藤をとらえ、レースの襟からあふれそうな双丘がスウェットパーカーの胸へ柔らかに押し付けられて、生温かい息が右耳にかかる。

 

「これからユッキーはしもべだよ。いいよね?」

(――う、ううッッ!――しっ、篠沢ッッ!)

「――あッ?」

 

 陥落寸前、平手打ちの痛みを思い出し、抱き付いた魔性を押しのけ――ふらつきながら後ずさったユキトは手錠がはまる腕を胸の前に上げ、顔を背けてはね付けた。

 

「わ、悪いけど、協力できないよッ! 僕は、篠沢のところに帰るつもりだから!」

「篠沢さんのところ……?」

 

 スマイルを濁らせ、反抗者を見据えて尖る唇。

 

「――あんな子のどこがいいの? ルルの方が、ハイパー無限大に魅力的なんだけど?」

「そんなの勝手だろっ! とにかく言いなりにはならないからなッ!」

「ふーん……そう……」

 

 軽く頭を振ってツインテールの翼を揺らし、脇に下げた右手を二、三度握ったり開いたりして……ユキトとの距離が、ゆっくり詰められる……

 

「……ちょっとカチンときちゃったな。罪には罰、損害には賠償――ルルのハートを傷付けた責任は、ちゃんと取ってもらおうかな~」

「なっ、何をする気――あうッッ!」

 

 シャッと伸びたルルフの右手に左上腕をかまれ――鋭いしびれが全身を切り刻むと、突然開いたウインドウでユキトの所有ポイントがダーッと減少していく。

 

「ポ、ポイントが? これは?」

「ルルのスペシャル・スキル〈ポイント・ドレイン〉だよ。今朝のブーム、実はポイントすっごい消費しちゃうんだよね~ だからユッキーのポイント、慰謝料として残らずもらってあげるねっ!」

「――ぐうッ!」

 

 しびれが強まるのに比例して、底が抜けたように失われてたちまち四分の一を切るポイント――

 

「――ホントに……いい加減にしてくれよッッ!」

 

 絞り出された拒絶で振った腕が手をはじき、ルルフを後ろによろめかせる。その隙にユキトは両開きの白扉に飛び付き、逃げ出そうとノブをガチャガチャ回した。

 

「……無駄だよ、鍵がかかってるから。だけど、そんなに望むなら開けてあげる」

 

 無表情のルルフがコネクトを開くと、いきなりドアがバーンと内側に開いてユキトを絨毯の上に突き倒し、飛び込んで来たガーディアンたちが左右から腕をつかんで乱暴に立たせる。そして、したたか打った背中や扉がぶつかった両手の痛みでうめく様を、ルルフとの間に立った北倉と鎌田が憎悪のまなざしで焼いた。

 

「優しくお話してたら乱暴されちゃった。どうしよっか?」

「貴ッッ様ァァァッッ! なんてッッ、なんて真似をォォォッッッ!」

「許せないッ! 絶対に許せないですよッ!」

「そうだね~ 取りあえず地下に放り込んでおいて。どうお仕置きするか、よぉーく考えるから」

「ハイパーディバインッッ、ゴッデス・ルルフ様ッッッ! ――おいッ、連れて行けッッ!」

「く、くそっ!」

「この野郎ッッ! おとなしくしないかッッッ!」

 

 腹にボグッッとめり込む北倉のごついこぶし――体を折り、吐かんばかりに咳き込むユキト。バリアのガードなしの一撃にもだえる姿はそのまま応接間から出され、エレベーターへと引きずられて行った。

Mov.49 笑う悪魔(3)

 

「――おらおらァ! こんなもんかよ、軍将様ァッ!」

「――はあッッ!」

 

 鋭い突きをかわして斬り結んだ佐伯は、押しやろうとする矢萩の力を利用して後方に跳び――下腹部から燃え上がる気合で刃を輝かせ、生み出した9頭の猛虎を斬撃とともにグワッッと解き放った。

 

 スペシャル・スキル――九虎流くこりゅう――

 

「――うッ、おォオッッ!――」

 

 襲いかかる虎たちが斬られながら爪で腕や肩を切り裂き、体当たりの衝撃で矢萩の体勢を崩す。すかさず踏み込んだ佐伯の赤い突きが、バリアもろとも心臓を貫こうと――

 

「――ッッ?」

 

 軍服を透過し、矢萩の胸中央からほとばしる赤黒い輝き――鉄壁にぶつかったかのように刃が阻まれ、爆発さながらの凶暴な波動が佐伯をはじき飛ばす。宙でしなやかに身を立て直し、着地して羅神を構える先では、不気味に輝く人影が戸惑い、源の胸をまじまじと見つめていた。

 

「……ま、また……何だ? 力が……あふれてッ……!」

 

 網膜に突き刺さる、ギラギラした赤光――戦慄したかのように震える一帯――潤たちが驚く揺らぎの中、輝く矢萩はぶるぶる震える左手でジャケットのカラーとボタンを、それから下に着ているワイシャツのボタンを外して左右に開き、Tシャツの襟をガッと下げた。すると、胸の中央で盛り上がる赤黒いこぶがあらわになる。毒々しい光を沸騰させるそれは、先刻ミストの中で発光したときにはまだ現れていなかった。

 

「こ、これは……?」

『〈ウルトラオーブ〉の完全な発現です』

 

 無機質な声に皆が目を上げると、矢萩の頭上でワンが黄金色にきらめいていた。

 

『――それが、あなたに与えられた力です、矢萩あすろ。感じますでしょう? マグマのようにたぎる荒々しいウルトラパワーを』

「……こんな力が……ふふふ……あははははははッッ!」

 

 哄笑が噴火して高らかに響き、下げた襟が下側に引っかかってむき出しのオーブが輝きを増すと、矢萩を核に爆発した強烈なプレッシャーが地面の草をジェノサイドして緑の猛吹雪を現す。

 

 それはまるで、突如出現したハリケーンの暴君――

 

 地面をググッと踏み締め、飛ばされぬようこらえる佐伯たちの前で矢萩は餓狼を投げ捨て、世界に食らい付こうとするごとく両手を大きく広げた。

 

「あんたなんかに刀はいらないッ! 俺のウルトラパワーを存分に思い知らせてやるぜェッッ!」

「――佐伯軍将ッ!」

「引っ込んでやがれッ!」

 

 滝夜叉を握って飛び出す潤に矢萩の右手から暗赤色の矢じり型光線――ブラッド・アローが飛び、足元でドォンッと爆発してふっ飛ばす。倒れた潤に駆け寄る村上やうろたえる梶浦たち――それらをじろっとにらんで力を抑え、感嘆する入谷たちに軽く手を振って応えた矢萩は、自らの存在を地に打ち込んで荒波に逆らい、気を練って全身にみなぎらせる佐伯をせせら笑った。

 

「もう一度食らわせてみなよ、ご自慢のスペシャル・スキルをさ」

「!……」

 

 挑発に、佐伯は闘気を全身から羅神の先端まで行き渡らせて己を一振りの刃に変えた。巻き添えを避けて上昇したワンに見下ろされながら憎しみの直線上に立つ二つの影――並び立つことができないゆがんだ鏡像同士は、ざわめき、激しく揺らぐ流動のただ中で起爆に向けて力を増幅させた。

 

「――――――はあああッッッッッ!――」

 

 白革靴が爆ぜて地面を削り、ゴオッと飛び出した佐伯が突き出す羅神――赤い刃から放たれ、猛然と飛びかかる9頭の猛虎――と、赤黒い輝き――矢萩の胸の前で両腕が☓の字にガッと合わされ――

 

「――スペシャル・スキル、ブラッド・レイィィッッッ!」

 

 叫び、どす黒い☓の輝きからドオオッッッと放たれる暗赤色の光線――獰猛な激流は光の猛虎たちをぶち抜いて吹き飛ばし、とっさに羅神を盾にしてバリアを強める佐伯を直撃――

 

「――くッッッ!――」

 

 爆発――噴き上がり、猛り狂う炎に焼かれて散る草――そして、煙の中からゆらりと浮かび上がる、ジャケットを焼かれ、上半身の皮膚がただれて肉が焦げた姿……真ん中付近から無残に折れた赤い刃の日本刀……食いしばった歯をきしらせてうめき、脂汗あふれる顔をねじれさせた佐伯は、爆発による土煙を噴き出すパワーで蹴散らして現れた矢萩の組み合わされた両腕が、先程をはるかにしのぐエネルギーをみなぎらせているのを見た。

 

「――食らいやがれッ、ブラッド・レイ・インフィニティイイイイイイィッッッッ―――――――――――――――――――――ッッッ!」

 

 ブラッド・レイを津波だとすれば、これはまさに大津波――射線上の空間を猛然と食らう暗赤光の波動は瞬く間に佐伯を丸呑みし、草原を焼いてえぐりながら飛んで――

 爆炎の魔神が召喚されたかのごとき、凄絶な大爆発――

 世界を砕き、鼓膜を破らんばかりの轟音――陥没し、悶絶する大地――

 彼方でおぞましく立ち昇る巨大なキノコ雲……そのとてつもない破壊力に誰もがしばし言葉を失った。

 

「……すッごぉいッッッ!」

 

 入谷のキンキン声が、はじける。

 

「――すごいッッ! すごいッッ! すごいッッ! すご過ぎですよッ、矢萩さんッッッ!――ねぇ、中ちゃんッ?」

「え? あ、ああ……」

「超強ぇ……」ぼそっと言う真木。

「……反応が……」

 

 ヘブンズ・アイズを見る潤……見開かれた双眸は、佐伯のキャラクター・アイコンが消え、コネクトもつながらなくなっている事実に凍り付く。

 

「――ぅわあああああッッッ!」

「加賀美大尉ッ! 落ち着いてッ!」

 

 滝夜叉を左右に握り――矢萩に斬りかかろうとするのを村上が後ろから押さえ、前に回った梶浦が懸命になだめる。興奮してもがく潤を三人衆に囲まれた矢萩は鼻で笑い、うねった焦げ茶色の髪をザラッとかき上げた。

 

「頭を冷やせ。ヤマトナデシコのお前が、イジンのメスガキに熱を上げる軟弱男に殉じることはない」

 

 潤がひるむと、矢萩はウルトラオーブが輝く胸を張り、自分を注視する者たちにまなざしの切っ先を突き付け、声をとどろかせた。

 

「これからは、俺様がお前らを導いてやるッ! 文句のあるヤツは、前に出ろッッ!」

 

 動く者は、いなかった。

 桁違いのパワーを見せられた上に佐伯が消え去ったショックで彼、彼女たちは半ば放心状態になっていた。佐伯に代わるトップがいない――後藤アンジェラが一応ナンバー2だったが、純血日本人でない彼女では……という考えが主流だった――状況にも助けられ、ヤマトのトップ、そしてハーモニー軍とコミュニティ・リーダーの座を簒奪さんだつした矢萩は、黙り込んだメンバーを見回して不敵に笑い、ウルトラオーブに引っかかっていたTシャツの襟を戻してワイシャツとジャケットのボタンをはめながら高圧的に告げた。

 

「一旦遺跡に帰るぞ。今すぐイジンどもを始末しに行きたいところだが、派手にやって少し疲れたし、遺跡にいる連中にも俺様が新しいリーダーだと知らしめてやらないとな。一休みしたら発つから準備をしておけよ」

 

 命じて真木と中塚を従え、甘える入谷の肩を抱いて、新たな王は行く手であたふたと左右に割れる者たちの間を蹂躙する足取りで歩き、自分の宿舎へ向かった。

(8)

 雪に点々と印される血の跡が、瞬く間に白く消されていく……いくらか弱まったとはいえ、まだ強く吹き荒ぶ雪の中をシグルは血まみれの肉体を引きずり、額の傷から流れる血で視界を赤く染められながら、這うように一歩一歩山をのぼっていた。

 その頭には、もはや角は無かった。

 折れた右の角は、オージュのむくろの胸に突き刺さったままで、もう雪に半ば埋もれているだろう。残った討伐隊のシカたちは、狂気の核だったオージュとフルーを失ってぼう然とし、左右の角を折り、血まみれになりながら立ちはだかるシグルの鬼気迫る姿に恐れをなして山から転がり落ちていった。

 ようやく赤く霞んだ視界に見覚えのある大木が、その脇に弱々しく立っている子オオカミの小さな姿が映る。雄シカの有様に驚いて声も出ない幼子の傍らまでたどり着くと、シグルは力尽きて倒れた。顔の右側が雪に埋もれ、半開きの口から魂が白い息とともに少しずつ抜けていく。

 

「……お前、いったい……」

 

 目の前に息も絶え絶えで横たわる雄シカに動揺しながら、子オオカミはどうにか声を出した。

 

「……さっきまで下の方で恐ろしい声が聞こえていた……お前、あの恐ろしいものと戦っていたのか? 僕を守るために?……僕の仲間は、お前の母ちゃんと父ちゃんを殺して食べたんだろ? なのに、どうして……」

 

 シグルは揺れる子オオカミの目に焦点を合わせ、幼く、まだ濁っていない瞳を見つめた。

 

「……お前……名前は何て言う……?」

「え?」

「お前の名前だ……両親からもらった……」

「……ラウ……ラウだ。僕の名前は……」

「ラウ……か」

 

 シグルは子オオカミの、ラウという名前を口の中で包むようにつぶやいた。

 

「俺の……名前はシグル……だ……」

「シグル……」

 

 シグルは重くなるまぶたを押し上げ、力無くあえぎながら声を振り絞った。

 

「……俺を食え、ラウ……」

「……え?」

「俺を食うんだ……俺は、じきに死ぬ……そしたら、この体を遠慮なく食べろ……そうすれば、きっとお前は生き延びられる……腹が膨れれば、力もついて元気になれるはず……だ……」

「な、何を言ってるんだ、死ぬなんて……そんなはずないだろ。こんな、僕なんかより何倍もでかいくせに……! 僕はまだ母ちゃんと父ちゃんのかたきを取ってないんだぞ! なのに、勝手に死んじゃうなんて、ず、ずるいじゃないかっ!」

 

 うろたえ、ラウは小さな体を左右に揺らした。それをシグルは静かに見つめ、口から深く息を吐いた。

 

「……らない……」

「え?」

「……俺には、分からない……なぜオオカミがいて、シカがいるのか……なぜ俺たちがこんなさだめにあるのか……だが、せめてお前には知って欲しいんだ……お前の血肉になるのが、何者なのかを……」

「……お前……! お前は……! 何で……! 何でなんだ! 何で! どうしてなんだ! どうして……!」

 

 悔しみとも悲しみともつかない涙がラウの両目からあふれ、頬の柔らかな毛を濡らす。

 

「……ラウ……お前たちが、俺たちシカや他の動物を食べざるを得ないのなら……忘れるな……俺たちは餌じゃない……お前たちと同じように生きて……」

 最後の方は、もう声が出なかった。自分を見つめるラウの顔がぼやけていくのを見るシグルはいつになく静謐せいひつな心地になり、憎しみに憑かれていた時間がはるか遠くに流れ去っていった。

 

(……マルテ……)

 

 ふと、マルテの美しい顔が、ぼんやりラウに重なった。

 

(……すまなかったな……)

 

 今ならばきっと彼女を、彼女の気持ちを理解できるだろう……シグルは自分の瞳いっぱいに溶けてくるマルテとラウに微笑み、安らかにまぶたを下ろした……

 



 涙に濡れた顔を上げ、マルテはそっと耳をそばだてた。深い夜が彼女の前に広がる雪原に沈殿し、雪がしんしんと降る。まるで今朝までの猛吹雪が幻だったかのようだった。

 

(……シグル……)

 

 マルテはそっと、帰らぬ者の名を呼んだ。

 謹慎処分を受けていたシグルが討伐隊の後を追ったと聞いたとき、マルテは恐ろしい予感で胸が張り裂けそうになり、自分も山にのぼろうとしたものの、群れのシカたちに阻まれて果たせず、どうか無事にシグルが、そして討伐隊の雄たちも戻ってきますようにと祈った。

 しかし、その願いはかなわなかった。

 地平に厚く積もった雪雲の向こうで陽が昇り、発狂していた天候が正気を取り戻し始めた頃、雪崩なだれるように戻って来た血だらけの討伐隊に群れは大騒ぎになり、気が狂ったシグルにオージュとフルーが殺され、他の雄たちも重軽傷を負ったこと――致命傷を受けたシグルも、病と飢えで衰弱しているらしい子オオカミもおそらく生きてはいないだろうという話で持ち切りになった。皆が子オオカミを助けて仲間を死傷させたシグルを口汚くののしることにいたたまれず、マルテは林の中心から離れ、この雪原に独り立っていた。

 

(……シグル……あなたはオオカミの子を守ったのね……)

 

 ――どうしてシカがいて、オオカミがいるんだ――

 

 あのときのシグルの叫びが、マルテの耳によみがえる。

 

 ――どうして――

 

 その答えは、マルテにも分からなかった。だが彼女は、討伐隊から伝え聞いたシグルの言動から、彼があがき求めたものをはっきり知った。

 

(――!)

 

 ぴくっと耳を動かしたマルテは、顔を上げて背後――山の頂を振り仰いだ。

 

(……聞こえる……オオカミの……子どもの遠吠え……きっと、シグルが言っていた子の……)

 

 静かに雪降る夜の彼方から繰り返し聞こえてくる、幼い遠吠え――それは歌っていた。大切な者を失った悲しみを、自分の運命に対する苦しみを。その叫びはマルテの心に染み渡り、潤んだ瞳から熱い涙があふれて頬を濡らした。

 

(……あなたも……なのね……)

 

 遠吠えがやんだそのとき、林の中心の方がにわかに騒がしくなり、シカたちが浮足立っている気配が伝わってきた。顔を振って涙を払い、表情を引き締めてそちらに足を向けてみると、シカたちが樹間を右往左往しており、飛び交う言葉から今し方の遠吠えに動揺しているのだと分かった。マルテはすれ違うシカたちに安心するように声をかけ、とくに不穏な気を放っている群れの中心――長老とその周りに集まっている傷だらけの雄たちに歩み寄った。

 

 ――長老、群れが襲われます! 何とかしませんと!――

 ――仲間を呼び寄せようとしているんです! 我々への報復を企てているんですよ!――

 

 狼狽ろうばいした雄たちに囲まれた長老は、ううむ、とうなったまま、指示を出しかねていた。シグルやオージュといった要になりうる存在を失い、戻って来た雄たちが皆手負いという状況では、群れを守ることすら難しいと思われたからである。

 

「大丈夫よ」

 

 マルテは雄たちに声をかけた。一斉に顔を向け、落ち着き払った雰囲気にたじろいで体をどかす彼等の間を通り、彼女は長老の前に立った。

 

「マルテ……?」

「長老……」

 

 マルテは、いつもと少し違う様子に戸惑う目をまっすぐ見つめると、

 

「――心配いりません、長老。あの子オオカミは私たちを襲おうとしているわけでも、仲間を呼び寄せようとしたのでもありません」

 

 と、きっぱり言い切った。

 

「……なぜ、断言できる?」

「あの子は泣いているんです。自分の家族を……自分を守ってくれたシグルを失ったことを。そして運命を悲しんで、それでも前へ進もうとしている……それだけなんです」

 

 聞いていた雄たちは顔を見合わせ、そして、何を言っているんだ、おかしいんじゃないかと声を荒げた。だが、マルテはそうした声にたじろがず、しっかりと雪の上に立ち続けた。

 

「お前たち、静かにせんか」

 

 長老は周りを黙らせるとマルテに目を据えたが、その瞳はうまく焦点を合わせられていなかった。

 

「……シグルを失ったことを、だと? あの子オオカミがシグルと心を通い合わせたとでも言うのか?」

「そうです。あの声に耳を傾けていれば、お分かりになったはずです」

「ふむ……」

 

 長老は、ううん、と痰が絡んだ咳払いをして渋面じゅうめんを作った。

 

「シグルは、あの子オオカミを助けたのだ。感謝されたとしてもおかしくはないだろうな」

「そういうことではありません」

 

 マルテは耳に残る遠吠えを聞き、その響きを与えたシグルを思って続けた。

 

「そんな薄っぺらなことではないんです。シグルはあの子、オオカミにも自分と同じように家族があり、生きていくために他の動物を狩らなければいけないことに悩んでいました。そして、敵対するだけの関係を超えようとあの子のところに走ったんです。その結果が、あの遠吠えに込められた心……シグルとあの子は、お互いを自分と同じ命だと認め合えた……私はそう確信しています」

 

 うろたえていた雌や子どもたちがやり取りを聞きつけて集まって来る中、揺るぎ無いまなざしで語るマルテに、長老は口をへの字に曲げ、老いて濁った目を狭めた。

 

「……仮にお前の言うことが正しいとして、だからどうなると言うのだ? 生きていく限り、あの子オオカミは肉を食わなければならない。それはつまり、いずれは他の動物……我々を襲いに来るということだぞ。そのときに何だ? お前は、まさか自分を差し出すつもりか?」

 

 同調する失笑や怒りが周りから浴びせられる。だが、マルテはシグルと、子オオカミとの一体感を力にして答えた。

 

「戦います」

「んん?」

「私は戦います、長老。私を生んでくれた両親のため、短い生涯を終えた姉のために、私は生きます。精一杯生きて、戦って、それでもいつかオオカミの牙にかかるときが来るかもしれない……そのときは、覚悟をします」

 

 その宣言にまたざわめくシカたちを長老は黙らせると、

 

「……勇ましいな、マルテ……お前の気持ちは分かった」

 

 と言い、集まった同胞に向かって、

 

「マルテの言う通り、我々は生きなければならん、戦わなければならん! 今夜のところは無事に済むかもしれんが、またいつオオカミが襲ってくるか分からん。早々に群れを立て直さなければならんぞ!」

 

 と、叱咤した。それによって生じた熱気にむせ返りそうになったマルテは、長老に賛同して高ぶる一群から抜け出し、少し疲れた足取りで林を歩いた。そして再び雪原に戻ると、降る雪に構わず樹林から出て、さく、さく、と雪を踏んで足跡を残しながら白銀の地を歩いた。すると、また山頂の方から幼い遠吠えが響いてきた。

 

(忘れないで……)

 

 立ち止まって向き直ったマルテは、山頂を仰ぎ見て一声鳴いた。鳴き声は雪が舞う夜空に響いて林に広がり、それに共鳴するように上がる遠吠えが山並みを越えていく。それにまたマルテは鳴き声を返した。

 

(――精一杯生きて、もしあなたと戦うことになって力及ばず死を迎えるときが来たら、そのときは潔くこの命を差し出しましょう。あなたにあげるのなら、きっと心残りは無いから――)

 

 そして、マルテは再び聞こえた遠吠えに重ね、白く光る雪の中でひと際高く天へと鳴いた。

(7)

(――!)

 

 シグルは足を止めた。視線の先に影があった。口から蒸気を噴き出して急斜面に立つ、頭から角を生やした黒い獣――

 

「シグル、か……!」

 

 殺気みなぎる声が飛び、猛吹雪からオージュが現れる。それに続いてフルーたちも姿を現し、シグルは左右に広がった10頭と対峙する形になった。雪嵐にあおられたように血走った目が並ぶ中、戦慄を覚えるほど切れ上がって見開かれたオージュの目が、異様にらんらんとしていた。

 

「シグル、オオカミのガキはどこだ?」

 

 居丈高に問うオージュに、シグルは口をぎゅっと結んで急勾配の下にいる相手をにらみつけた。その態度に横からフルーが、

 

「シグル! オージュさんが聞いているんだ! ちゃんと答えろぉ!」

 

 と、怒鳴ったが、シグルはそれを無視し、吠えたて、吹き飛ばそうとする猛吹雪に逆らって四肢を踏ん張らせた。

 

「……まあ、いい。近くから確かに臭っているんだ。話す気が無いのなら探し出すまでだ」

「待て、オージュッ!」

 

 落雷のような声が響いて場が一気に緊迫し、シグルとオージュの視線が熾烈にせめぎ合う。

 

「シグル、なぜあのガキをかばう? オオカミは俺たちの天敵。それに情けをかけてやる必要などないし、万が一生き延びたら、いつか必ずシカが食われることになるんだぞ!」

「俺は……」

 

 シグルは目をそらさず、懸命に言葉を探した。

 

「――……俺は、両親を殺したオオカミが憎い。シカを餌としか考えない奴らが許せない。だが、憎しみのままに復讐することが正しいのかどうか、今は分からない……オオカミにも、あの子にも母親がいて、父親がいて、愛があった……それを守るため、生きるために俺たちのような動物を食べる必要があったんだ。その現実を、もっと考えるべきじゃないかと思うんだ。殺し合いをする前に……」

「ふははははははははッッ!」

 

 嘲笑すると、オージュは横を見た。

 

「――フルー、お前はどう思う? つまりはオオカミたちの事情も酌んでやれということらしいが?」

「冗談じゃないですよぉ!」

 

 フルーは大げさに顔をしかめて、

 

「――何で俺たちがそんなことしなきゃいけないんだぁ? 奴らは敵で、かたきなんだ! 邪悪なけだものなんだよぉ! 仲間をたくさん殺され、自分の親まで食われているくせにさぁ! 頭がおかしくなったんじゃないかぁ?」

 

 と、まくし立てた。周りがそれぞれ、そうだ、その通りだ、冗談じゃない、などと口々にわめくのを聞きながら、オージュは歯をむき出しにして薄汚く笑った。

 

「いかれちまったな、シグル。あのガキの泣き言にほだされて、よォ!」

「違う! そんなんじゃない! 俺は――」

「黙れよッ!」

 

 はねつけたオージュが鉤爪かぎづめを思わせる角を構え、フルーたちも連鎖的に頭の武器をシグルに向ける。

 

「やめろッ! 俺は争いたくないッ!」

「うるさいッ! 貴様のような裏切り者は、オオカミのガキもろとも殺してやる! 何で貴様のような奴にマルテはァ――!」

 

 爆発さながらに足元の雪を飛び散らせてオージュが飛び、凶器が猛然と繰り出される。

 

「――くうッ!」

 

 反射的に横へ飛んだもののかわし切れず、角に切られたシグルの右横腹から血がにじんで赤褐色の毛を濡らす。

 

「――お前たちもかかれッ! オオカミのガキをかばうこいつも敵だ! やれッ!」

「やめろッ! やめてくれッ!」

 

 シグルの制止もむなしく、子オオカミ殺しに血をたぎらせていた雄たちは、凶暴な吹雪に取り込まれたかのように次々襲いかかった。著しく傾いた雪の上で角と角が激突し、突き合って火花を散らす。さすがに英雄と称えられるシグルの戦いぶりは獅子にも引けを取らなかったが、10対1という数の差が拮抗していた戦況を次第に傾かせる。

 

「――うぐッ!」

 

 左のももに激痛がズグッと響く。振り返りざま、突いていた雄を角で打ち払うと、シグルは背後から突っ込んできた別の雄を後ろ足で蹴り上げた。見事あごをとらえた一撃で骨が砕ける音を出したその雄は、口から唾液と混じった鮮血を飛ばしながら悲鳴を上げて急斜面を転がり落ちた。

 

「――シグルぅッッ――!」

 

 吠えるオージュに角で応戦し、めちゃめちゃにかき乱された雪を蹴ってシグルは幾度もぶつかり合った。

 

「――やめろッ! こんなことをして何になる? あの子を殺し、オオカミと殺し合うことに何の意味があるんだ?」

「ふざけたことをッ! オオカミ殺しをした貴様が言うことかァッ!」

 

 ――ベキィッ!

 

 太く頑丈な枝がへし折れるのに似た音がして、シグルの目が赤く染まった。左の角が根元から折れて地面に落ち、オージュの角による額の傷から血があふれて流れ込んでいた。

 

(――角が!)

 

 オオカミたちとの死闘をも経てきた角は、知らず知らずのうちにダメージを蓄積させていたのだ。頭が割れるような痛みにうめいた刹那、シグルの胸に衝撃が突き刺さる。

 

「……あぐっ……あ……!」

 

 胸を赤く染め、よろめきながら後ずさるシグルの前に、角の先を血で汚したオージュが立つ。

 

「ここまでだな、シグル……!」

 

 いびつな笑みをともに恐ろしいほどむかれて燃えるオージュの目は、この世に生きるもののそれとはとても思えず、いったい何が見えているのか、シグルには想像もつかなかった。

 

「――シィィグゥルゥゥゥッッ――――――――――――!」

 

 狂気の叫びを発して飛ぶオージュに集中したそのとき、右の腰に衝撃が加わって体勢がガクッと崩れた。隙を突いたフルーが、角で右腰から脇腹にかけて突いていた。

 

「きひひひひひひ……」

 

 もっと深く突こうと力をかけながら、しわを醜く寄せて上目遣いに笑うフルーに吐き気がこみ上げたシグルは、ばねさながらの動きで一気に立て直すや体をひねって両後ろ足のひづめを醜悪な顔面に叩き込んだ。

 

「――べへェ……!」

 

 ぐしゃぐしゃに砕けた顔から不気味な断末魔を発し、フルーは血をまき散らして雪上に倒れた。しかしそのとき、シグルの右脇腹に汚れた角が深く突き刺さり、肉をえぐっていた。

 

「お、ぐっ……!」

 

 右脇腹からどくどくあふれ出す血がオージュの角を伝い、滴が猛吹雪に散る。踏み込んで角が深く食い込む様を、討伐隊の雄たちは熱狂した目で見入っていた。

 

「……オージュ――ッ!」

 

 突き刺さった角に押されて横倒しになったシグルは、前足でオージュを蹴ってはねのけ、すぐさま立ち上がったものの、右脇腹からどっと噴き出す血に赤い視界を霞まされてふらついた。

 

「バカな奴だ」

 

 オージュの嘲弄が耳を打つ。

 

「――オオカミのガキなんぞをかばうから、こんなことになるんだ。あのガキもすぐに後を追わせてやるから心配するな」

「……そんなことは……!」

 

 四肢を雪に穿って体を支え、まぶたをかっとこじ開けたシグルは、残った右の角をオージュに向けた。

 

「往生際が悪いな……!」

 

 吐き捨て、血で汚れた角を構えるオージュをにらみ、シグルは薄れていく意識の中から問いかけた。

 

 ――俺は、間違っていたのか?――

 ――天敵であるオオカミの子どもに情けをかけるなんて、正気の沙汰さたではなかったのか?――

 ――なら、オージュたちのように憎しみに身を任せていれば良かったのか?――

 

 ……違う……

 ……それは違う……!

 

 ……オオカミとシカがいて、そこに憎しみと悲しみしかない……そんな世界は狂っている……!

 

「――俺は……!」

 

 シグルは残った力を振り絞り、全身全霊を込めて狙いを定めた。

 

「……俺は、まだ諦めていないッッ――!」

 

 とどろく叫びが、一条の閃光となって猛吹雪を貫いた。